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映画館を出て一週間、悩み続けた [「映画館に、日本映画があった頃」]

映画館を出て一週間、悩み続けた

 3月7日の月曜日。テアトル新宿へと走った。阪本順治監督待望の新作である。
 去年の連続ドラマの打ち上げで、佐藤浩市が「次は阪本作品で悪役をやる」と静かに燃えていたのを思い出す。ディスカッション好きな彼のことだから、監督と2人で役の造形ついてしつこく何度も討議したに違いない。
 映画は、自動販売機の下に捨てられていたトカレフ拳銃の黒光りから始まった。

 見終わって最初の感想。
 こんなにディテイルが甘いのに、こんなに堂々としていられるのは何故だろう。
 この映画について、誰にでも指摘できる問題点かおる。
 自動版売機のドとか病院のトイレとか、日本ではそんなに拳銃がゴロゴロ落ちているのか。
 それを言っちゃおしまいと、この映画を支持する人々は言い返す。しかし識者の評論家は、この偶然性で転がされてゆく映画に我慢ならない。身代金受取りのシーンで警察が簡単に犯人を取り逃がしてしまう展開の甘さも指摘する。
 この映画の作り手は、現代日本における男と男の、原始のエネルギーによる闘争の物語を作りたかった。都合よく拳銃を手にする展開も、その大命題のためにどうしても必要だった。『ヌードの夜』では、主人公が拳銃を手にするまであれはどの苦労をした。しかしそういうドラマは好まず、一直線に報復ドラマヘと展開を転がした。『トカレフ』の脚本を読むと(完成台本のようだけど)、これは眼差しの映画であることが強調されている。言葉による説明は徹底的に排している。
 いや、徹底はされていない。子供を誘拐されて亡くした後の夫婦の罵り合いには言葉があふれている。
 実は、今僕が書いている連続ドラマでは、子供だけで繋がっている夫婦が、子供を惨殺され、それがきっかけで離婚するという展開が中盤に用意されている。子供を亡くした夫婦の葛藤というものに最もリアリティを感じさせる方法は、激情を内向させ、言葉を奪うことだと思った。
 この映画の夫婦は.子供だけで繋がっている夫婦である。と、女優の言葉として「キネ旬」に書かれていた。
 しかしその設定を観客に分からせるならば、例えば、子供の前では笑顔でいられるが、子供がふと視界からいなくなると会話できなくなる夫婦……というようなシーンを書く。
 が、この映画の前半で描かれる夫婦像には、危うさが感じられない。感じない僕が鈍いのか。
 主人公が、誘拐実行犯のカップルを死処するシーン。どうしてあの男が犯人だと主人公は直感できたのか、あとで脚本を読むまで分からなかった。
 誘拐された時、道に人通りがないのに何度も信号でバスを止められたことを思い出す。横断歩道を渡りもしないのに信号の押しボタンを押す犯人の奇行を見掛けて、主人公はハッとしたということらしい。
 やがて主人公が宿敵・佐藤浩市を発見する。発見された佐藤浩市は、風車に火を放って、警察に捕まることで危機を脱しようとする。しかし主人公は警察にひるむことなくトカレフを撃って襲いかかる。この展開には血湧き肉踊った。
 すると佐藤浩市も拳銃を腰から技いた。トカレフを隠し持つたまま警察に捕まったという、知能犯だがどこか破綻している男だった。
 狂気や残忍さにおいて、前例のない悪役を造形したかった気侍ちは分かる。しかし、作り手たちの面白がり方が、少し暴走していないだろうか。
 この破綻が面白い、という描き方をしたかったのだろうが、その破錠の意味を考えてしまうことで、血湧き肉踊る気分が停潜してしまう。
 説明をしない。観客に想像させる。その作り方は美しい。北野武の映画に影響されているのかどうかは分からないが、作り手たちには冒険心が溢れ、志は確かに高い。
 が、ここまで突き放され説明してくれないと、説明しないということがそんなに素晴らしいことなんだろうか、と逆に反感めいたものを感じてしまう。
 例えば主人公と妻の関係性は、最初から最後まで曖昧のままである。何が好きて2人は結婚し、何が倦怠に導き、妻は佐藤浩市に目を向けるようになったのか、子供亡き後、何か我慢ならなくて二人は別れたのか。
 別れた後、自分の子供を殺したのかもしれない男と所帯を持ち、その子供までも産むヒロイン像は凄い。が、その凄さをあともう一言説明を加えてほしい。彼女は男たちの闘争を尻目に、どこへ歩いて行くのか。風車の燃える闘争の傍らにいるに違いない我が子を、何故助けに走ろうとしないのか。
 「説明はいらない」と腹をくくってまで、観客を「ノセる」手立てをことごとく放棄するという確信犯的なマイナス点を、超えて余りあるものがそんなに多くあるのだろうか。
 こんなことを感じるのは、僕が説明過多の作家だからかもしれないが。
 ラスト、主人公は宿敵を殺した後、口に銃口をくわえて自殺する。この男にとって、子供を殺されたことや女房を奪われたことが復讐の情念ではない。口にトカレフを突っ込まれて撃たれた、その屈辱が一心不乱の行動に走らせた。一度、警察の山狩りに包囲された時、拳銃をくわえて死のうとした。しかしできなかった。屈辱を晴らすまで死ねないと思った。で、ラスト、やっと宿敵を殺すことができた。
 でも僕なら、それでもこの主人公は死ねない、という終わり方を取る。あいつをやれば死ねると思った。でもあいつは死んでも、あいつに拳銃を口に突っ込まれたという記憶だけが脈脈と自分の中で生き続け、愛した女を取り戻すこともできず、ただこの世の残酷の真っ直中に茫然と立ち尽くす。そういうエンディングを僕は見たい。
 最後の自殺は、例え宿敵との心中という意味合いがあったにしても、やけに理に落ちている気がする。このテの映画のお約束の終わり方、「ソナチネ」の終わり方とどこがどう違うのだろうか、とも思う。説明を排した映画が、最後になって誰でもよく分かる理屈に到った、と僕は感じる。
 
 ……という文章を書けるまで、映画を見終わってから1週間も要してしまった。佐藤浩市から「感想求む」の葉書まで貰ってしまった以上、生半可な感想文は書けないと思ったのだ。
 けっこう悩んで書いた。
 指摘したことがはたして正しいのか、書き上げた今も自信が持てない。困った映画だ。
 それほど刺激的だった。
「偶然性の連続でノレない」の一言で済ますことなど決してできない映画だった、僕にとっては。

 3月11日。「トカレフ」とは対照的に説明に温れた『ラストソング』の最終日最終回。
 東宝の中川・瀬田両プロデューサー、フジテレビの池田プロデューサーと杉田監督、みんなと日劇東宝で落ち合い、それぞれの席でフスト上映を迎える。
 成績3億7千万。
 もう数字はいい。とにかく最後のスクリーンを楽しもうと思った。1時間59分、ワンカットワンカットを慈しむよいにして見た。
 見終わり、最終日にもかかわらず大勢入ってくれたお客さんを見送るようにロビーに立つ僕らは、誰からともなく「終わりましたね」と溜め息混じりに呟く。
 その夜は、フグの刺身を肴に乾杯。
 うまい酒だった。

野沢尚著書より




2009-03-12 16:46  nice!(2)  コメント(4)  トラックバック(0) 
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コメント 4

漢

拝読!
by 漢 (2009-03-13 11:25) 

gyaro

野沢尚さんが見たいと思われたエンディング。
自分も、そんな結びとなる映画をたくさん観たいと思います☆

by gyaro (2009-03-19 13:09) 

野沢

漢さん
nice!、コメントありがとうございました^^
by 野沢 (2009-03-28 18:15) 

野沢

gyaroさん
nice!、コメントありがとうございました^^
「自分が見たい作品がないから、自分で書くんだ・・・」
野沢の仕事の原点の一つだったと思います。
by 野沢 (2009-03-28 18:18) 

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