映画館のために、小説を料理すること [「映画館に、日本映画があった頃」]
映画館のために、小説を料理すること
過去に実現しなかった仕事を振り返る、そういう機会があった。
伊集院静・作の「乳房」は、2年前の春の段階で、原作権は競売状態にあった。
NHKエンタープライズと松竹製作によるハイビジョン映画の企画として、僕は黛りんたろう監督と組んで『乳房』の脚色を始めた。原作者との権利獲得交渉は途中であったけど、僕等は原作の魅力に引きずられ、せっかちにもハコ作りまでやってしまった。
4月、桜が散った頃、東京近郊のガン病棟へ取材に行った。その時の記憶は今でも脳裏に焼きついている。
院長先生のご好意で入院病棟を見せてもらえることになった。ただし患者たちは部外者に敏感なので、医者に変装してほしいと言われた。貸してもらった白衣を着て、僕と黛さんは院長の後ろに付いて廊下をめぐり、病室を覗いて回った。
1人の少女がいた。17歳ぐらい。陸上選手のようなしなやかな体軀を、可愛いパジャマに包んでいる。院長が「あの子は白血病です」と耳打ちしてくれた。その瞬間、少女と目が合った。偽医者の僕たちを「どこの先生だろう」という目で彼女は見ていた。
あの眼差しが忘れられない。
あれから2年たって、少女はまだ生きているのだろうか。
思えば『乳房』は、連想ゲームのように、様々なインスパイアを与えてくれる素材だった。
あの短編を2時間サイズの映画にまとめるためには、オリジナルによる補足が多く必要だった。他の伊集院作品のエッセンスも加え、夫婦の恋愛劇としての厚みをどう加えるか、原作の一行一行から発想を広げようとした。
まず、この夫婦関係を定義する。
夫は照明マンとして『光』を創る人間でありながら、病室の妻に『光』を当てられない自分の無力さを痛感した。しかし妻は不治の病でいながら、男の心に潜んでいた優しさに精一杯の光量で『光』を当てることができた。
キーワードはどうやら『光』だった。
憲一と里子はオペラの照明もやる。ベートーベンの『フィデリオ』は夫婦愛を描いた歌劇である。
新婚旅行は奈良だった。中秋の名月が池に映る。幻想的な観月の祭。
憲一は幼い頃に海で弟をなくした。捜索に出掛けた海にクラゲの光を見た。それが光の原体験。クラゲの光は死の光だ。
入院中、日食が起きる。憲一も里子もセロファンを目に当て、欠けてゆく太陽を仰ぎ見る。みるみる辺りは暗がりになる。鳥がざわめく。光がなくなる世界で里子が始めて死に恐怖した。
病床の妻を死ぬ時まで撮り続けた荒本経惟の写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』も参考になった。
イメージが先行する作劇ではあったけど、わりと野心的な脚色になりつつあった。
しかし結局、映画化権がどうしても獲得できず、 このハコ書きは2稿まで上げたところで作業凍結となった。
僕も黛さんも意気消沈した。気を取り直して、次に三島由紀夫の『春の雪』に挑んだが、これも原作権交渉の段階で挫折した。そしてNHKエンタープライズと松竹のプロジェクトは『RAMPO』へと移つていった。泥沼のようなトラブルには、僕は一応巻き込まれずに済んだ。
渋谷エルミタージュに出掛けた。
自分が2年前に格闘した素材を、根岸さんチームがいかに映像化したのか、興味は尽きなかった。
結論から言うと、1時間バージョンの『乳房』映画化は、原作に忠実で、印象としてはおとなしいが、随所にうまさを感じさせる脚色だった。
例えば、里子がが始めて白血病の発作に襲われるくだり。
憲一と近所に豆腐を買いに行く。豆腐屋のおばさんが今日に限って元気がない。里子は何かあったのでは、と思う。すると数日後、豆腐屋の親父が死んだ。2人は喪服で通夜に出掛け、里子の勘の良さに憲一は関心する。そこで里子は発作に襲われ、路上に崩れ落ちた。
死の匂いを嗅いだ帰りに、死の兆候に見舞われる。
原作の小エピソードを見逃さず、効果的にドラマの本線へと繋げている。こういうのがプロの脚色だと思う。
現実と過去を行きつ戻りつする憲一の描写にも、面白い表現がある。
憲一は妻の着替えを取りに自宅へ戻る。庭先に里子の幻影を見る。憲一という名の犬を抱えて笑っている。憲一は洗濯をし、妻の下着を軒先に干しながら、幻想の妻と会話をしているかのようだ。この後、前述した豆腐を買いにゆくシーンに繋がる訳だけど、妻の幻想と散歩しているかのようなモンタージュに観客は眩惑される。演出に、客を眩惑させよう、というあざとさがないのがイイ。白血病の妻を抱えた男の不安定感も漂っていた。
映画化に際して、原作にはないエビソードも加えられているが、その点については効果的とは言えないような気がする。
友人夫婦と旅行するくだり。
憲一は友人の妻から愚痴を聞かされる。夫と憲一の友情の絆に勝つことができない、という意味のことを友人の妻は言い、いきなり憲一にキスして「今度寝よう」と言う。それを里子が遠くから目撃してしまうんだけど、このシーンの締め括りは「いろいろあって男と女ってことだよね」という里子の台詞である。
憲一の無頼ぶりと、里子の子供っぽさ。その2つとも別のシーンで充分に表現されている。友人夫婦との対比で主人公夫婦の何か表現されたのだろうか。
そもそも『乳房』という小説は、できるだけ二人芝居で押し通すべき素材だと思う。
傍系人物に厚みをつけることで主人公を照らすという作劇のようだけど、上映時間1時間という制限の中では、核心の2人のドラマでやるべき事が他にもあったような気がする。
ラスト、寛一が初めて涙を見せる。
デートクラブの女と寝ようとしたができなかった。どんな男も受け入れる健康な肉体を前にした時、病気の妻が哀れでならなかった。病室に戻って来ると、里子が髪にリボンをつけて帰りを侍っていた。
「帰らないと思った。その方がパパらしいから」というオリジナルの台詞は泣ける。
ところが、この直後に憲一が妻のすぐ後ろで泣いてしまうことで僕は泣けなくなってしまった。
憲一は懸命に嗚咽を隠すのだけど、ベッドの里子に気付かれるのではないか、と見ている僕は気が気でない。憲一の泣き声を聞けば、自分が不治の病であると里子は勘づいてしまう。あれは聞こえる距離である。
憲一が堪えきれなかった感情吐露は、原作のように病室ではなく廊下で、なるべく里子との距離感が必要だったのではないか。
「自分に対する憤りと、見えない何者かへのどうしようもない怒りがこみ上げて、拳を握り続けた」という原作の描写は、憲一が里子に接近していればしているほど、ただ目の前の妻が哀れ、という小さくてウェットな感情に流れてしまうのではないか。
無頼の主人公の涙が描かれる揚面だけに、どうしても気になってしまった。
野沢尚著より
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