SSブログ

映画館に何故、愛着を感じなくなったか③ [「映画館に、日本映画があった頃」]

10/23よりつづき

映画館に何故、愛着を感じなくなったか ③

 では僕が説明する。どんな批詐家よりも的確にこの映画を捉えてみせよう。
『集団左遷』とはこういう映画だ。

 映画はまず、89年のバブル時代と94年現在との対比から始まる。
 主人公・滝川が西新宿を地上げ完了する。強欲なラーメン屋夫婦を尻目に外に出てきた滝川は、ラーメン屋の息子が隣の空き地で丸焼けになったねずみを見ドろし、呟く言葉を聞く。
 ネズミは増えすぎると自殺する。誰が決めるのか生きる奴と死ぬ奴を。
 童話『ハメルーンの笛吹き』から発想された台詞である。これは後に、滝川の上司・篠田が特販部に演説する時にリフレインされる。脚本では、この台詞を篠田の口から聞いた時、5年前の少年の言葉が滝川の脳裏に蘇るというリアクションを求めたが、映画では押してくれなかった。
 何故だろう。
 さて、5年後の滝川は怠惰な日常を送っていて、会社のリストラ要員の1人にされている。滝川を含めて100名が合理化目標で、副社長の横山は、人事部長のままならぬリストラ作戦に見切りをつけ、陣頭指揮に立つ。
「会社を潰すかお前がやめるかどっちかだ!」
と吠えたところでメインタイトル。レゲエがアレンジされたアッブテンポの音楽に乗せられ、出だしは快調だ。
 横山は親会社の銀行からリストラ専門の弁護士を雇う。これは原作にはない展開だ。
 女弁護士の冷徹な口調が役員たちに危機感を募らせるわけだが、映画では数字の説明がやけに多く、リストラをしなかった場合にどんな状況が会社を襲うのか、という具体的未来図を説明しない。同じ説明なら、数字ではなく、勤労意欲の欠如した社員ばかりになる企業の末路、といったものを冷たく語る方が説得力があるんじやないだろうか。
 横山と女弁護士が考えたリストラは、首都圏特販部なるものを設立し、達成不可能な販売目標を与え、その不達成を盾に100名を解雇に追い込む、という姑息なものである。
 その本部長に横山が指名したのが、以前、会社上層部に建白書を書き、横山を糾弾しようとしたかつての部下・篠田である。
 報復人事に他ならない。横山はサディスティックに篠田をいたぶり、会社を追い出そうとしている。
 無能な社員ばかり集まった特販部の中て篠田が頼りにするのは、かつて他の不動産会社から引き技いた滝川である。本部長就任にまだ迷いがある篠田は、「お前が決めてくれ」と言ってヘリの中で滝川に辞表を託す。滝川は辞表を破く。退くも地獄、進むも地獄であっても一緒に頑張りましょう、という意味だ。
 ここは僕の脚本と逆の表現になっている。
 集められた部員たちに痛ましさを感じ、篠田は本部長ポストを決意し、滝川の前で辞表を破いて「お前が必要なんだ」と言う・・・・・というのが脚本である。現場がこの形を取らなかったのは、役者からの注文による改変だったからだそうだが、俳優行政に左右され、映画全体における主人公・滝川のキャラクター計算を誤っていると僕は思う。
早い話、篠田と滝川はかなり早い段階から、『荒野の七人』のユル・ビリンナーとスティーブ・マックイーンになっている。リーダーと参謀格。確かに娯楽映画としては分かりやすいが、主人公のビルディング・ストーリーとして物語を捉えた時、前半で篠田と滝川にガッチリ握手させるのは得策ではない。
 僕のキャラクター計算はこうだった。
 滝川は特販部にやってきた。しかしそこでも滝川は相変わらず異端児である。「こうなったらホコ天でチンドン屋をして物件を売りますか」と提案するような奴である。家庭崩壊者で金にも困っているチャランポランな男。しかしそんな男が、住宅雑誌に左遷集団の実態を結果的に告発することになり、会社は大騒ぎになるがその自虐的記事が逆に幸いして特販部が持ち直す・・・・・といった修羅場に身を置くことによって、だんだんと変化する。
 滝川のキャラクターが成長するのは、自分たちの命とも言える建売住宅が焼け、篠田が倒れ、「あとはお前にまかせる」と特販部を託された時である。
 それまでサラリーマンの精神論に背を向けていた男が、窮地に立ってはじめて、城南電気の社長に土下座し、「私達に仕事をさせ下さい!」と涙目で懇願する。その姿こそ感動的なはずだ。
 主人公の成長物語をこうした流れの中で表現することが僕の狙いだった。
 東映の映画というのは、えてして細かい人物計算をしない。極めて大雑把に捉え、荒っぽい作りで観客を乗せようとする。現場は、リーダーと参謀恪を画面の中央に立たせてしまうことで、娯楽映画として最も単純な形を選んだ。
 さて、映画が半分ほど過ぎた頃、僕が最も嫌悪するシーンが登場する。撮影台本でも太く赤線を引いた箇所。『ここは野沢が書いたシーンではありません』と字幕をいれてほしいと思う。
 例の5時まで男・柳町が「どうしてあんただけ5時に帰るのか」と同僚から吊るし上げられる。彼は家庭の事情を語らない。するとヒロイン春子がおもしろに「柳町さんは自分のために帰るんじゃないんです。奥さんが末期癌なんです!」と、柳町を救うために叫ぶのだ。
 撮影台本で読んだ時、のけぞった。
 柳町の妻は、自分が癌だということを知らない。特販部員から周りまわって柳町の妻の耳に入ったとしたら、春子は一体どう責任をとるつもりなんごろう。癌の告知というものを、この女はどう考えているんだろう。
 僕は柳町が同じような異端児的キャラクターの連体感から、滝川だけに妻の病気を教えると言うシーンを書いたのだが、撮影台本におけるこの信じられない改悪で、「ここごけは何とかしてもらわなきゃ困る」と筆頭プロデューサーに詰め寄った。柳町が同僚に妻の癌を打ち明けるというシーンに抵抗があるなら、誰にも言わず、柳町は自分の中で解決すればいいのではないかと提察した。妻の癌を知っているのは観客だけ。奮起する柳町の内面は観客だけが理解すればよい。これが最高の解決策だった。筆頭ブロデューサーも納得した。ところが監督が春子の「奥さんは癌なんです」発言にこだわった。監督には監督の計算があると言う。春子の見せ場を作りたい、というのが理由で、筆頭ブロデューサーは監督を説得できなかった。
 あげくがこの有り様である。
 一体どんな演出の計算なのか。大勢の前であんな無責任な発言をする女が、どうヒロインとして成り立つというのか。逆じゃないか。こんな軽はずみな女にヒロインとしてどう愛情を持てというのか。
 この辺りの展開から、映画の中盤は稚拙な構成になってゆく。
 特販部員に造反者が出るが、一方では特販部の物件がいくつか売れて一喜一憂、やがて滝川ラインによる住宅雑誌の記事が出て大騒ぎになり、柳町の虎の子の仕事は妨害され、副社長に詰め寄って妻のことを吐露する・・・・・・といった素人の脚本のようなブツ切れの構成になる。
 僕は『集団左遷』という素材を受け取った時、この物語は一種の密室劇だと理解した。会社内抗争を劇的に見せるためには、なるべく1つのシチュエーションの中で事件が発生し、人物が翻弄されるという、言ってみれば演劇的な造りを取るべきだと思った。そのことは脚本打ち合わせの中でも散々言ってきた。だけど、こうして結果を見る限り、誰も僕の言ったことを理解してくれなかったようだ。
 造反者が出る。敵方に取り入ろうとする部員も現れる。特販部が悲愴な雰囲気の時に、追い打ちをかけるように、柳町の仕事が妨害工作にあった。副社長に詰め寄ると滝河の内部告発記事を逆に突きつけられ、形勢は逆転する。これが『集団左遷』という映画にふさわしい劇的構成なのである、絶対。
 おそらく東映の映画作りの前では「演劇的造りを」などと言ってもハナっから無駄なのだと思う。

 映画は滝川の曖昧なキャラクター描写と散発的なエビソードの羅列で終盤にくる。
 花沢部長のスパイ発覚、保身のための放火、建売社宅の炎上、滝川の奮起、有終の美。
 映画はクライマックスの会議室になる。
 目標額に達してないことを盾にどうにかして篠田たちを解雇に追い込もうといる横山に、味方であったはずの女弁護士が「宣伝予算なしでここまで売り上げを達成した首都圏特販部は存続に値する」と言い出し、これまで横山が顎で使っていたような社長も同調する。
 ノルウェーの漁師は、イワシの生簀にナマズを入れておくことで、イワシを長生きさせて港に持ちかえた・・・・・とい社長の話が、この会社における首都圏特販部の価値を物語る。そこで横山が立ち上がり、「お前ら、会社の傷を良っ直ぐ見たことがあるのか!」と、ダーティーワークで生きてきた男なりの叫びを上げる。ここの津川氏の芝居は毒々しく、それでいて説得力があり、見せる。
 ところが直後、緊張感はガタガタと崩れる。
 横山の言葉に反抗する形で、篠田が突如「俺たちみんなの血と汗がしみこんでいるのだ!」と彼らしくなく逆上し、春子が横山との関係を告白すると、滝川が「彼女だって自分をさらけ出して持販部を守ろうとしているだ!」と叫ぶ。みんなが主役になりたくて、この会議室のシーンで大見得を切ってしまうのだ。
『これは野沢が書いた台詞ではありません』とここでも字幕を入れて欲しかった。二流以下の脚本家が書く台詞だ。
 で、滝川が横山を殴る。
 僕はやっと理解した。
 これは、上司を殴ったらどんなにスカッとするだろう、という世の中のサラリーマンたちの劣情に訴える映画だったのだ。それが筆頭ブロデューサーが『集団左遷』で目指したルックだったに違いない。
 と思った矢先に、次に来るエピローグだ。
 現揚の脚本改訂作業の中で、このエピローグは唯一の成果である。
 横山は失脚しない。リストラ作戦指揮官として、親会社の銀行会長の手の内で転がされる。狂気の時代にふさわしい狂気のヒーローとして使われ、やがては使い捨てにされるという運分か待っている。横山自身もそれは感じとっていて、ある無常感を抱いている。
 横山の処理の仕方としては、最高の形どと思った。何なら『このンーンは野沢が書いたものではなく、現場の功績です』と字幕を入れてもらって構わない。
 ただ、この後味がザックリと観客の心に残らないのは、終盤に至るまでの稚拙な表現が災いしている。
 劣情に訴える単純明快な娯楽映画なのか、体制側の悲哀まで考えさせる上質な人間ドラマなのか、この映画はどっちつかづの印象を残す。しかし『集団左遷』という素材には、多くのミスを不思議と誤魔化してしまうような一本太い幹が通っている。
 逆境の男たちが体制側に挑み、勝利する・・・・・というストーリーの太い幹が、観客に、荒っぽいが最後まで見てみるか、という気にさせてしまう。
 僕がいろいろと言うほど、映画は失敗作ではないのかもしれない。しかし例えそうでも、僕がこの映画に愛着を持てないことには変わりはない。
 10月29日、前番組の成績不振から一週公開か繰り上がった初日、僕は劇場に行かなかった。
『ラストソング』の初日は、マリオンヘ行く足取りは弾んでいた。今日は仕事場で日本シリーズ第6戦を見ながら、この恨みがましい原稿を書いている。
 なんという違いだろう。

おわり
野沢尚著書より


このエッセイの①から③回までかなり感情的に書かれていますが、若かりし頃の出来事で、その後、野沢と東映の関係者とは誤解や感情的な部分は解消され、この作品以降も一緒にお仕事もさせていただいておりますので、この記事だけを読んで誤解されませんようにお願い致します。 映画に限らず、物作りの現場では、「いい作品を作りたい」というそれぞれの想いが強すぎてぶつかったり誤解したりといったことはよくあることだと思います。 それぞれのパートで、それぞれ自分の仕事にプライドと自信を持っているということだし、作品を思っているということだと思います。 映画やドラマを見ている側の私たちにも、物作りの裏側ではこんなにぶつかり合いながら一生懸命作っているんだということが分かっていただけたらと思います。


2009-10-27 18:17  nice!(3)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 3

コメント 3

gyaro

『集団左遷』は地上波を録画して持っています。
>『ここは野沢が書いたシーンではありません』と字幕をいれてほしいと思う。
野沢さんの心境、アマチュアの私でもすごくよくわかります。
もう一度観てみようと思っています。
でもその後は、解消されていたというのも嬉しい事です^^
野沢さんでなくてはなかなかこうはいかないとも思いました♪
そこがまた野沢さんの魅力であり、私が愛した理由でもあります☆
by gyaro (2009-11-09 04:33) 

桃月

不謹慎ながら、このエピソードをそのままドラマや映画にしたら、今の時代にウケるのではないかと思ってしまいました
by 桃月 (2022-08-17 18:49) 

野沢

桃月様
コメントありがとうございます。すっかり忘れられたサイトになっていると思っていたのでとても嬉しいです。確かにそういった視点も興味深いですよね。思いもよりませんでした。
by 野沢 (2022-09-05 11:48) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証: 下の画像に表示されている文字を入力してください。

 

このブログの更新情報が届きます

すでにブログをお持ちの方は[こちら]


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。