映画館を出て、厄介な映画に出逢っちまったな、と思う [「映画館に、日本映画があった頃」]
映画館を出て、厄介な映画に出逢っちまったな、と思う
3月25日の夕方。代々木上原で根岸組の直し打合せが思ったより早く終わったので、新宿のアルゴに向かう。
今度はきっと厄介な相手だぞ、と覚悟しながら『ありふれた愛に関する調査』と対峙する。
思った通り、一筋縄ではいかない映画だった。
しばらくつきまとわれそうな映画だった。面白いとか面白くないとかいう尺度とは関係なく、作家をやっていく上で、確実に、記憶のへりにまとわりつく映画になりそうだ。例えば、洋画で言えば『夜をみつめて』とか『白い家の少女』、日本映画で言えば『アフリカの光』なんていうシャシンが、僕にとっては容易に忘れられない厄介な映画である。
探偵映画というジャンルでこれを見たとする。おそらく大多数の観客は、この主人公に感情移入できないまま、エンドクレジットを迎えるだろう。イヤな男である。浮気亭主に子供がいたということを、人妻の色香(?)に惑わされてつい報告してしまうこの探偵。旅行バッグを持って空港に現れ、「あいつの気持ちを無にしたくない」と言って、自分が殺したも同然の男の恋人と旅に出ようとするこの探偵。
この探偵が、全て灘件が終わり、また事務所に電話が鳴り、再び難事件に向かうのだとしても、たいていの観客は「お前がこの先、死のうが生きようがどうでもいい」と思うんじやないだろうか。
だが、ここが厄介なところなのだが、渋谷の井の頭線沿線のうらぶれた町を歩けば、こういうイヤな探偵が本当にいそうなのだ。
探偵映画というジャンルの遠くあっち側にはフィリップ・マーローがいて、こっち側にはこのイヤな野郎がいる。これから探偵映画を書く時は、この対極の間でキャラクターを作らなきやならない。
探偵としてのダンディズムは決して認めることはできないが、人間としてのリアリズムは良くも悪くも溢れた、映画の主人公としてギリギリに成立している例だ。
作家白身の姿が投影されているに違いない、とか、全共闘世代の残骸であるとか、そういう見方にはあまり興味ない。
現実に、こういう男が映画の主人公としてスクリーンに存在してしまったことが、僕にとっては驚異(脅威?)だった。
だからこそ、許せないシーンがある。
コインランドリーで毎度出全う聾唖の少女、ラスト近く「元気ありませんね?」と筆談で問い掛けられた探偵は「元気になります」と答え、笑顔を浮かべる。
どう見てもあのくだりは、このイヤなキャラクターの救いとして表現される。
救いなんて見たくなかった。井の頭線沿線の町を歩いていても、コインランドリーで聾唖の少女と心の交流する探偵なんて、決していないと思う。
言葉のいらない若者の恋を描くために聾唖のカップルを登場人物に選んだ北野武の不純さほど罪深くはないにしても・・・・・・
ハリウッドの探偵事務所で飼われている篭の小鳥であるとか、猫とか犬とか、そういうルーティーンと同じではないか。
イヤな野郎だとしても、ある哀れは何故か感じられる探偵なのだから、救いがどうして必要だったのか。
ここまで破けた主人公を作ってくれたんなら、最後の最後まで救いようのない破け方をしてほしかった。
ともかく、厄介な映画を背負いこんだ。
できることなら、この映画のことは忘れて、近い将来、明るい気持ちで探偵映画という難事件に当たりたい……と思うのだが、きっと無理だな。
という訳で、この映画についてのエッセイは、これでおしまいにする。
以下は付録である。サブタイトルは―――
『映画館には、もう決して辿り着けない脚本』
としたい。
作家の愚痴りと受け取ってもらっても構わない。とにかく僕は吐き出して、少し楽になりたい。
6月イン予定だった萩原健一主演の深作組が流れた。
理由は、大船撮影所に試算してもらったらペイラインが13億になるからだそうだ。
筋は一応通っている。今時、13億かかる映画なんて、よほど大量動員できる枠組がなきやゴーは出ない。
市民暴動に包囲された警察署をめぐる24時間のドラマ……という今回の脚本は、とてつもなくスペクタクルだが、エキストラの数に正比例した観客動員など望めそうにない。
よくいって8億。会社は赤字だろう。
釈然としないのは、理由が金だけなのだとしたら、どうしてその決定が今頃出てきたのか、という点である。脚本は1年前にすでに形になっていた。その時にペイライン13億という数字も出ていて当然なのに、僕は先月、直しの作業を発注され、監督と旅館に入って、1年前の脚本より確実に質的向上できるアイデアを積み上げた。
もっと大胆に、もっと面白く、とあおりたてられて直しの作業にかかり、その作業が終わってから、やっぱり金がかかるからダメ、では、正直いって作家の気分は収まらない。
どうして犠牲を最小限に食い止めてくれなかったのか。作家が10日間苦しむことは大した被害ではないのか。
深作監督との作業を経て脚本のグレードを上げることに成功したのなら、その10日間は決して無駄ではない。僕にとっては財産になったのかもしれない。
しかし、だ。
「すいませんでした」と若いプロデューサーが電話の向こうで謝る。そこで「今更何を言ってんだ!」
と怒鳴り声を張り上げる僕ではない。
「そうですか。しようがないのかな」と答え、
「……で、どうだったんですか、今回の直しは」と間く。
答えてくれない。1年前の脚本より良くなっているのか悪くなっているのか、誰も一言も答えてくれない。中止決定が出た以上、脚本の出来を云々しても無駄だということなのか。
今までは忠節。これからは決意である。
第一稿タイトル『その男たち、凶暴につき』、
最終稿タイトル『かくて神々は笑いき』と題されたこの原稿は、そもそも、プロデューサーに「面白かったら買って下さい、つまらないと思ったら返して下さい」と言って渡した、商売とは無関係に今一番書きたいものを書いた、という脚本だった。
が、商売になる手前で頓挫した。
今、最も製作費をひねり出せる松竹の奥山チームで「回収不可能につき中止」という結論を出したのなら、他の会社においても不可能である。
この脚本は、もう決して映画館には辿り着けない。その現実は受け止めた。原稿は押入れの中で黄色く変色していくのだ。だが、それだけは見たくない。
どうすればいいのだろう。
この2週間、そのことばかり考えてきた。
今の熱が醒めないうちに、できるだけ早く2ヶ月あけなければ。
この原稿に必ず、他の形で、完結点を与えてやる。
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