映画館のスクリーンの汚れが、切なかった [「映画館に、日本映画があった頃」]
映画館のスクリーンの汚れが、切なかった
一体自分はどういう作家なんだろう。誰か作家論を書いてくれないだろうか。
映画批評家でもいい、同業者でもいい、日大芸術学部の先生でもいい。書いてくれるのなら、その人に、これまで僕が書いた28本のテレビドラマと8本の映画脚本を渡して、分析してもらおうと思う。
作品の底流には何が流れているのか、人間をどう捉えているのか、あるいは捉えていないのか、長所は何か、ヒットポイントはどこにあるのか、どんな作品でも陥っているミスがあるのか・・・・・作家本人が気付いていない諸々をちゃんと論じてほしいと思う。
今のところ誰も論じてくれそうにないので、しょうがない、自分自身でやるか。
28本と8本についてここで書くにはスペースが足りないので、1つの例として、2月22日、歌舞伎町の映画館で見てきた『ジェームス山の李蘭』という映画を取り上げる。
1950年代、日本という国自体がギャンブルで、誰もがのしよかろうと目をギラつかせていた時代。隻腕の中国美女と年下の青年ギャンブラーの恋と、恋が実った後の四半世紀に渡る愛の生活、そして片方の死で幕を閉じる『夫婦の恋愛劇』・・・・・・・
原作は、映画ほどドラマチックではない。
李蘭をかち取るため、葉介が李蘭のパトロンとスタッドポーカーで戦うというシークエンスは僕のオリジナル部分である。『シンシナティ・キッド』や『ハスラー』的な高揚感をクライマックスに設定したかった。
実際、映画でも、このくだりは熱く描かれている。参加するギャンブラー1人1人のキャラクターの描きこみも、まずまずの出未だ。
ただ、僕自身がギャンブルと当時の洒落っ気についてはまったく無縁な人間であるから、必死にこの世界に付いて行ってる感じはする。
ダンディでギャンブル好きの脚本家が書いていたら、もっと余裕のある描写でゲームの真実を描いていたかもしれない。
もう1つ、原作にはなく、脚本段階で新たに付け加えた要素がある。
それが、原作から投げ掛けられた挑戦状のように、僕は思えてならなかったのだ。
つまり、大命題――『李蘭は何故、片腕をなくしたのか』
原作では一切伏されている。原作者にお伺いをたてずに、何とか答えを見つけてみようと躍起になった。
こういうところで頑張るあたりに、ノザワという作家の長所と欠点が同時に見えてくる。
よく言えば、僕はストーリー・テラーであり、悪く言えば、荒井晴彦さんが「若いくせにお話作りに一生懸命になっている後輩連中」と仰る中の1人だと思う。
ストーリー・テラーは、投げ掛けられたミステリーを黙って見過ごす訳にはいかない。
原作は、八坂葉介という青年を少年時代から遡って書かれていて、李蘭が登場してからのくだりは、4つある連作短編のうち、最後の1篇だけである。葉介という沢山のデータが残っているキャラクターーを練りこむより、前歴がまったく明らかにされていない李蘭という女を探ってみることに、ストーリー・テラーの血は騒いでしまった。
まず李蘭の年齢を、日本と中国の歴史と合わせてみる。と、ちょうど李蘭の少女時代に、満州国皇帝が歴史の表舞台に出ていたことが分かる。『ラストエンペラー』の時代である。
皇帝の妻、婉容の手記を参考資料として読んでいると、彼女自身がアヘン中毒であり、甘粕大尉が麻薬に絡む特殊事業に手を染めていたという記述に突き当たる。
アヘンと李蘭。ここに謎を解く鍵がある……とストーリー・テラーは考える。
アヘンによって国を追われた李蘭は、一家離散の後、人買いに捕まって売春宿に売られる。地獄のような日々から、男の欲しがる自分の体を断ち切ろうとする。そこでアヘンが必要だった。アヘンを麻酔代わりにして、片腕を鋸にかけた。アヘンのパイプの吸い口には竜の細工が施されていて彼女は「竜と口づけをして私は時をとめた」と、後に葉介に語る。葉介はその言葉を、李蘭の死後も引きずっていくことになる……
いける。ストーリー・テラーは構想ノートの前でガッツポーズだ。ま、一応、長所だと言っていい。
しかし、出来上がった映画を見てみると、同じ部分にノザワの欠点が見え隠れする。
この謎ときは台本の最後の数ページで語られる。が、エピローグで消化すべき謎解きではなかったんじやないか。
「李蘭は人買いに捕まって上海に売られた・・・・・」という台詞が、いかにもお伽話のように聞こえてくる。軽いのだ。売春宿で自分の腕をぶった切った少女李蘭と、その後のナルシストとしての女の変遷が、映画を終わった後、ズシリとこない。ただ人生をなぞっただけに思える。何故だろう。
そもそも、李蘭は何故片腕をなくしたか、というミステリーにこだわったことが間違いだったのではない
か。
片腕の謎を、謎として残して幕を閉じる方法があったんじやないか。 だが、仮にあったとしても、僕は意地でも謎解きの方を選んでいただろう。やっぱり根っからのストーリー・テラーなのだ。
誤算は他にもある。
李蘭と葉介の愛の交歓として、二人で演劇をする場面がある。『卒塔婆小町』や『美女と野獣』を2人がソノ気になって演じるくだりを見た時、「しまった」と思った。ナルシズムとダンデイズムの交歓というような、洒落っ気のレベルでこういうシーンを作るべきではなかった。これはセックスの前戯でなければならない。艶がない。濡れてない。
ノザワというのはきっと、話し上手がひとつ間違うと話し下手になってしまう・・・・・・
そういう類の作家に違いない。これが、今回の仕事における自己確認である。
上映していた歌舞伎町の映画館は、一見、新装したばかりのようで綺麗だが、実は劣悪環境だった。
スクリーンが汚れている。走っていって雑巾で拭いてやりたくなった。客席の右斜め後ろからは断続的にトイレの水音が聞こえる。同じビルにあるパチンコ屋と他の映画館の音が壁伝いに聞こえる。
ひどすぎる。カメラの安藤庄平さんがこの映画館の両面を見たら、泣くに泣けないだろう。撮影現場で色彩設計に神経を配ったアカデミー賞級のスタッフの苦労も、このスクリーンの汚れの前では無力である。
映画館で金を払って自分の映画を見る時が、仕事の締め括りである。自分の仕事が最後に行き着いた先がこのスクリーンか・・・・・・と思うと、悲しいモンがあった。
この映画館の館主は、はたして映画という商売を愛しているんだろうか。あのスクリーンの汚れが目に入らないのだろうか。
決して八ツ当たりでなく、映画を商売にする人間に、何か、どこか、麻痺したものがあるように思えて、暗然とした2月22日だった。
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