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映画館はまだ遠い・・・① [「映画館に、日本映画があった頃」]

映画館はまだ遠い・・・①
(※「映画館はまだ遠い」の章は長いので分割掲載とさせていただきます)

 その仕事は91年の6月に始まった。あれからもう3年もたってしまったのか。
 松竹とNHKエンタープライズ共同製作として始まったハイビジョン映画企画は、『乳房』『春の雪』と企画は上がったものの原作権交渉で躓き、宙ぶらりんの状態にあった。
 NHK側はまだ三島由紀夫原作にこだわっていたが、僕と監督の黛りんたろう氏との間では、江戸川乱歩賞の映像化という案が出た。当初は、乱歩の代表的な短編オムニバス形式、というコンセプトだったが、やがて、乱歩を主人公にした、乱歩世界の虚構と現実が交差する、言ってみれば作家の精神構造を描く映画にしようという話に発展した。
 会社上層部のOKサインが出ると、僕と黛氏は競い合うようにして乱歩作品を片っ端から読み、乱歩にまつわる参考文献を集めた。
 江戸川乱歩という人は誤解を恐れず言うと、1923年『二銭銅貨』でデビューしてから執筆休止期間を挟む1929年までの6年間で燃え尽きた作家だと思う。『心理試験』『屋根裏の散歩者』『芋虫』『人間椅子』『人でなしの恋』という珠玉の短編はこの6年の間に生み出され、当時の検閲を受けながらも、乱歩は一躍、怪奇エログロ探偵小説の大家となった。
 しかし30代後半から、乱歩は大味な長編小説と少年少女向けの怪人20面相シリーズで晩年まで作品を発表し続ける。
 とても長生さした作家であるが、傑作群は最初の数年期に集まっていて、円熟期というものが見当たらない珍しい作家だと僕は思う。
 人見知りが激しく、だが自己顕示欲は人一倍で、カメラを向けられると、つい恰好つけて写真に収まってしまうような男だったそうだ。
 伝記を読んで発見したのは、横溝正史氏との交流である。当時、横溝氏は乱歩の編集担当だったらしい。
 僕と黛氏は、当時のトレンディ青年として横溝正史を造り、乱歩とのコンビを物語の前半の軸にしよう、と話し合う。
 原作として使うのは『火人幻戯』。これは乱歩の長編としては遺作とも言える作品で、プロットやトリックにかなり無理があり、小説の完成度としては低い。
 しかし動物の愛欲を宿した殺人快楽症のヒロイン像はなかなか毒々しくエロチックで、乱歩の他の小説をミックスすれば、強烈な悪女を造形できるような気した。
 例えば、若い後妻が亭主を長持ちに閉じ込めて殺す『お勢登場』、この作品は乱歩の短編の中でも知る人ぞ知る傑作である。
『屋根裏の散歩者』も使える。原作における犯人は郷田三郎という男だが、ヒロインの原体験として使えるのではないか、と考える。
 ヒロインは幼少時代にアパートの屋根裏を徘徊し、様々な人間たちの痴態を天井の節穴から覗き、やがて両親のSM愛も見てしまう。殺人快楽症の原点は、屋根裏体験に根ざしているという訳だ。
 こうして僕らは乱歩世界の再構築に夢中となり、脚本の第一稿ができたのは91年の10月だった。
 それから1年間の苦闘が待っているとは、その時は夢にも思わなかった。
 脚本改訂で苦闘しなければならなかった最大の原因は、予算との絡みであった。
二度三度と脚本を直してはみたものの、どうやっても予算枠にはまらない。
 この仕事が最もドラスティックな動きを見せたのは翌年の2月だった。
 当時、奥山氏がプロデュースした『外科室』1000円興業があたった。これに気を良くした奥山氏は、『RAMPO』を70分・1300円興行にしようと言いだした。
 僕と黛氏はパニックになった。
 70分にまとめるということは、半分近くページを落とさなければならない。肉を削って骨まで削るような作業である。
 2月19日、奥山氏の部下である松竹側の担当プロデューサーに、僕は言う。「残酷な注文だ。ぎりぎり25ページは切る。50ページ切れと言うなら下りる」と。
 場を静安が支配し、プロデューサーは奥山氏の許へ僕の返答を持ち帰る。
 2日後、奥山氏と会う。この企画に大ナタを振るわなければ暗礁に乗り上げるという奥山氏の言い分も分からないではなく、僕は苦肉の策を提案する。
 60分60分の前後編にすればどうか。今ある3億の予算を前編に投入し、その成績を見だ上で後編を作る。連続ドラマならぬ連続映画という試みに注目も集まるだろう。
 ほとんどヤケクソ気味の提案に、意外にも奥山氏はノッた。
 ところが今度は黛氏が難色を示す。そういう製作体制を取れば、おそらく前編だけで終わってしまうだろう。結末のない中途す端な作品になるぐらいなら70分バージョンに努力すべきだ、と。
 あっちを立てれば、こっちが立たず。
 この時期、僕と黛氏と奥山氏はグチャグチャの三つ巴状態だった。
 それから半年間の出来事は思い出せないほど錯綜している。
 結局僕は第5稿の脚本と、6稿目のハコ書きを上げたところで、話し合いの末、下りることになった。その頃フジテレビの『親愛なる者ヘ』のスケジュールに突入していて、『RAMPO』の改訂作業は後回しにせざるをえない状況だった。
 黛氏は「ホンをこちらにまかせてもらえないか」と切り出した。もっと早くそう言いたかったのかもしれない。
 監督とは友好的に仕事はできたが、肝心な部分で分かり合えなかった気がする。
監督の注文を最大限聞き入れて脚本を直し続けたが、何度直しても監督は悩み、、自分が求めた脚本はこうではない、と途方に暮れていた。
 92年7月3日に仕事を下りた時点で、脚本タイトルが黛氏と連盟になることは、僕も納得した。

つづく
(野沢尚著書より)


2009-06-16 04:05  nice!(3)  コメント(3)  トラックバック(0) 
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コメント 3

野沢

漢さん
いつもnice!ありがとうございます。
たまにはコメントも期待しています^^

by 野沢 (2009-06-16 18:30) 

gyaro

>肉を削って骨まで削るような作業である。
これはかなりの大変な状況ですね。。。
第5稿の脚本と、6稿目のハコ書きまでやられて降りられてしまった場合、
脚本料は発生しないのでしょうか。
気になるところです。
by gyaro (2009-06-17 12:55) 

野沢

gyaroさん
nice! andコメントありがとうございます。
わ~~そこに着目しましたか・・・・^^;

気になった点は次回掲載ですっきり解消されると思います^^
by 野沢 (2009-06-20 00:50) 

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