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映画館を、情緒で満たす詐術とは [「映画館に、日本映画があった頃」]

映画館を、情緒で満たす詐術とは

  情緒で勝負するしかないんじやないか。
 と、1時間半並んで先行オールナイトの『ターミネーター2』を見た後、思った。
 渋東シネタワーの奥まで続いている行列を、僕たちの働き場所であるこちら側に呼び寄せるためにはどうしたもんだろう。演歌の血筋を引いている彼らの血管を一掴みするしかないな、とフト思ったのだ。
 ちなみに、僕にとってあのハリウッド超大作は、父親の引き際について教えてくれた映画だった。
 死ぬ時は、息子にちやんと影響を与えて死にたいものだと、真夜中の新玉線ホームで父親的な情緒に浸っていた。

 で、僕たちの働き場所である『こちら側』に、彼ら観客が大挙して押し掛けるに違いない映画が公開になった。 同世代作家・一色伸幸氏によるホイチョイ・ムービー完結編『波の数だけ抱きしめて』を、僕は公開4日目の9月3日、渋谷宝塚で見てきた。
 見る前の先入観としては、今回は話の作りも観客動員も、ちょっと苦戦するのでは、と思った。
  スキーに始まり、マリンスポーツときて、今回はミニFMらしい。しかも、9年前の物語だという。
 作り手たちは今回、客の何を刺激するんだろう。今までのような観客の『大摑み』はツライのではないか。そう思って映画館に入った。
 が、客席はどんどん埋まっていく。去年の『稲村ジエーン』と同じ客層が、廊下や通路をポップコーンで汚していく。
 こいつらの消費文化を刺激しないで勝負にかかるとすれば、おそらく情緒だろう、と思ったりする。古い言い方をすると『胸をキュンとさせる』あざといワザを徹底的に駆使するに違いない……と。

 映画が始まった。モノクロで表現される現在のドラマ。ヒロイン中山美穂の結婚式に、かつてのボーイフレンド織田裕二がタキシード姿で駆け込んでくる。旧友とも再会する。ユーミンが流れる。
 切ない。そうか、これから約100分、主人公二人の叶わなかった恋の顛末を見るのだな、と観客は思う。
 始めから結末を明かすような導入部というのは、ストーリーを作ったことのある人なら分かると思うけど、わりと勇気を要する。
 つまり、導入部の『額縁』を忘れさせて、二人が結ばれたらいいナ、と思わせるテンションが要求されるのだ。
 トンネルをくぐって色彩映画となる。
 82年を舞台にした本筋の始まりである。ミニFMに熱中する主人公たちの状況を観客にも説明するため、別所哲也演ずる部外者が登場する。ミニFMというものにどんなロマンがあるのか、ヒロインの口からこの部外者に対して語られる。
 ここら辺がツラかった。
 ミニFMが彼らに活気を与えていることは理解できる。だけど、4人の群像劇として、国道ご24号を駆ける電波というものが、彼ら1人1人の心の奥底をどう剰激しているのか、それが分からない。それが例え『真剣に遊ぶこと』なのだとしても、彼らの世界が血の通ってないものに感じられ、時々、勝手に遊んでろよ、という気分になってしまう。タラタラした演出のせいかもしれない。
 ところが必要な説明も終わり、登場人物も出揃い、音楽がドルビーステレオの効果たっぷりに乗ってくると、途端に映画は生き生きとしてくる。
 批評家が何と言おうと、この映画は映画館に共同幻想を求めてやって来た客たちの気持ちは確実に掴むんだろう。

 82年の夏といえば、僕も登場人物たちと同様、大学4年だった。
 春には早々に卒業制作の映画を撮影完了したものの、手伝ってくれた友人たちに恩を返さねばならず、仙台で合宿をしたり、スタッフ4人とキヤスト1人で戦争映画を撮ったり、国立競技場を制服警官スタイルで駆け回ったり・・・・・・出張助監督、出張エキストラで奔走していた9年前の夏だった。
 J・D・サウザーもTOTOも聞いた。ジョン・オバニオンは自分の映画のテーマ曲に使った。
 湘南を車でデートしようなんて人並みの大学生みたいなことは考えもしなかったけど、今の大学生とはかなり違う意味で、あの頃は『最後の休暇』だったような気がする。
 今でも引っ越しをする度に、当時すりきれるほど使ったダビング用のラッシュフィルムやテープが押入れから出てくる。でも、どうしても捨てられない。
 だから余計に思ったのかもしれない。この映画のラスト、再びモノクロの現在に戻って、登場人物たちは9年前に何を残して、何を捨ててきたのだろう。どうして彼らにとって、82年の夏は湘南のミニFMでなきやいけなかったのだろう……と。
 映画のクライマックス。作り手たちの詐術に僕はノセられる。
 壊れた中継ボックスと、やってくるスポンサー連中とのサスペンスと見せ掛けて、実は去っていくヒロインが電波の届かないトンネルに入るまでに、いかにして織田裕二が「好きだ!」と叫ぶかを最後のポイントにもってきた。この二段構えの力ワザは見事である。
 ヒロインは9年後に他の男と結婚したのだから、メッセージは伝わらなかったに違いないと分かっていても、マイクを掴んだ織田裕二に「早く叫べ」と、思わず僕はけしかける。
 あえて『額縁』でくくった作劇は、ここまでは失敗していない。
 問題はこの後だと思う。9年後、廃墟と化した彼らの砦に、結婚式で再会した旧友たちが集まってくる。
 ここで彼らは何を語っているのだろう。失われた青春の場所で感傷に耽る、というだけで、かなりサラリと映画の幕を引く。作り手たちはきっと確信を持って、このエピローグを用意したのだと思うけど、僕はつまらなかった。最後の最後、もう一つの情緒で客の気持ちを掴んでほしかった。
 例えば、9年たっても廃墟に残されていた『ある物』で、織田裕二は初めて9年前のヒロインの気持ちを理解するというような情緒。
 例えば、別所哲也が9年前、「彼女は好きだって言うために昨夜、ここに来たんだぞ」みたいなことを織田裕二に言う訳だけど、その本心がヒロイン自身の声で、この9年後に知らされるという展開。僕が9年前のダビング・テープを残していたように、あの廃墟に彼女の声が残っていた・・・・・・というような設定。
 いや、どうだろう。分からない。それではエピローグとしてはヘビーな情緒になって、全体のバランスを崩すかもしれない。
 でも、確実に言えることは、こういう情緒を最後までやるかやらないか、という点で、僕と一色氏の、作劇術の歴然たる違いがあるのだろう。
 彼はイイ意味で終始クールだし、僕は悪い意味で、こういう話だとやたら甘い後味を残したがる。 何はともあれ、映画館を情緒で満たす詐術というものに、僕もしばらくこだわってみたいと思う。
 10日後には、僕にとって八本目の映画である『ジャームス山の李蘭』が初号試写となる。
 脚本の上でのメロドラマとしての情緒過多が、どんな風に料理されているだろう。


 


2007-10-18 01:51  nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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