原作者と脚本家の二重構造(前編) [野沢コメント記事]
自分の作品歴を振り返ると、原作の脚色は3分の1はあるだろうか。
最もやり甲斐のある脚色とは、30ページほどの優秀な短編小説を2時間サイズの脚本に膨らませる時だ。
最も辛い脚色は、出来の悪い長編小説を料理しなければならない時だ。
そういうものに限って、「原作に忠実にやってほし」という原作者の要望をプロデューサーが安請け合いして、こちらの仕事があらかた終わった頃に知らされる。
主人公のキャラクターだけを借りてオリジナルのストーリーを作ることが最良の道であるのだが、原作者はお気に召さない。
脚本が原作者の添削付きで返されたこともある。ト書きに傍線を引かれて、「こんな表現はしないで下さい」と原稿用紙の欄外に注文がついている。自分がまだ中学校の作文の時間にいるような錯覚を覚えたものだ。
「私の小説をちょこちょこっといじって脚本にして、あなたは商売してんでしょ」
こんなふうに原作者から見下ろされていると感じたのは、僕の被害妄想だろうか。
連城三紀彦さんも、立松和平さんも、宮本輝さんも、褒めてくれない。
だったらいっそのこと、原作者とは距離を置くことにした。
下手に一緒に酒を飲んで、「今度、君に脚色をやってもらう仕事には、原作者として絶対にカットしてもらいたくない場面があってね、それというのは・・・・・・・・」なんていう講釈はは受けたくない。
原作を預けてくれたんなら、黙ってろ。そう言いたい。
おそらく「不夜城」を最後に、存命している日本の小説家の作品を脚色することは、二度とないだろう。(馳さんがうるさかった、という意味では全然ない。念のため)
今、コーネル・ウールリッチの「喪服のランデヴー」という古典ミステリーの脚色を終えたばかりだけど、会うこともないであろう外国の作家で、しかも亡くなった作家とくれば、話は別だ。
2000年―5月号「シナリオ」に「破線のマリス」の脚本が掲載されたさいに、その前文で『破線のマリス』創作ノート、原作者と脚本家のの二重構造と題して書かれたコメントです。
当時の気持ちが良く現れてると思います。
その後、野沢はここにもう1つ書き加えるべき要素があったと思ったでしょう。
存命なさっていない作家でも、その奥様(著作権継承者)が大変うるさく、何一つ思いどうりに書かせてもらえないこともあると。そして、一番受けてはならないのがそういった場合だということ。
私はこの時の、野沢の気持ちをよく知っています。
今現在私も原作を管理する立場になり、この時の野沢の気持ちを思い出し十分に気をつけています。
原作を預けるさいには、脚色家の側に立って最低限の希望を伝え、あとは何も言いません。
結果が自分の思い描いたものと多少違っても、そこに原作の真意を伝えようとする脚色家さんの思いが感じ取れたら、それもありだと思えるんです。
野沢本人だったら違うのかな・・・・。
野沢のコメント後半は次回に掲載します。
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