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映画館に押し寄せる、視聴率30%のお客たち [「映画館に、日本映画があった頃」]

映画館に押し寄せる、視聴率30%のお客たち

 来年4月の連続ドラマの準備中だが、プロットを書いてるうちに映画の脚本1冊分の長さになってしまった。これで局のOKサインを貰ったら戦いの3分の1は終わったも同然だが、そこにニュースが飛び込んできた。
 ライバル局が同じ時間帯にドラマをぶつけてくるという。それも視聴率30%を続けている破竹の勢いのプロデューサーが敵。思えば木曜10時というのは、競争相手はニュース・ステーションだけという安定政権だった。そこにライバル局は切り込んできたという訳だ。
 今頃、僕の書いた分厚いプロットをしんどい思いで読みながら、一体このピンチをどう切り抜けたらいいのかと苦悩する人々の顔が目に浮かぶ。僕も一緒に苦悩すべきなのだろうが、連続ドラマの視聴率というものと格闘を始めたのはつい最近のことなので危機感がまだ実感できない。『高校教師』の脚本家なら、こういう時になると何か名案を考え出し、みんなの頼りになるんだろう。
 僕はわりとテレビドラマが好きだ。
 1月、4月、7月、10月……年に4回、連続ドラマが切り替わる時、ひと通り、第1回だけは見てみる。そこで判断して、2回目以降見るものを選別する。今年10月に始まったドラマの中でどうやら最終回まで見そうなのは、『あすなろ白書』『都合のいい女』『同窓会』の3作品である。どれも何故かホモセクシヤルが題材に使われている。
 男の女のラブストーリーにおける『かせ』がなくなってしまった今、もう同性間の愛に焦点を合わせるしかないんだろうか。あるいは、どこまでもエスカレートしなければ、刺激大好きの視聴者を満足させられないのだろうか。
 この頃、思うこと。
 視聴者は、テレビドラマに何も期待してないのかもしれない。
 自分の人生の指針になるようなドラマを見たい。つまらない日常を揺り動かしてくれるようなドラマを見たい。生きる糧にしたい。
 そんなことを考えてテレビに向かう視聴者が、どれだけいるんだろうか。
 近親相姦を扱ったドラマを見て「面白い」と言った女性がいる。僕なんかは、何も内田春菊の『ファザーファッカー』ばりの表現をしてほしいとは言わないけど、ヒロインのあのナレーションで、父親と寝てしまうまでの感情が主人公の恟に刺さるように説明されているとはどうしても思えない。でも、視聴者の彼女はアレでいいのだと言う。テレビドラマに文学なんて求めない。求めたくなったら本屋に行って倉橋由美子を買うからいい、と言う。
 かなり多くの人達が『見せ物』を見たがっているようだ。
 昔は違った。例えば『北の国から』と『思い出ずくり』が同じ時間帯でやっていた頃は、ちょっと違っていたように思う。
 美しくも艮しい禁断の愛が描かれているから見るのが半分、テレビという見せ物小屋でとにかく何か見せてくれそうだからチヤンネルを合わせるのが半分、視聴率30%の実体は案外そんなものである。
 そもそも、テレビはついてて当たり前なのだ。食事していても、子供と遊んでいても、とにかくテレビはそこでついている。視聴率の調査機械が置かれてある家庭は、国民の代表という意識でひょっとしたら襟を正して見ているのかもしれないが、大抵の家庭では、職場労働や家事労働や受験勉強に疲れた人々が漫然と時を過ごす時にテレビを必要としている。
 「おいおい、そういう台詞吐くかあ?」
 「嘘だろおい、いきなり殺すかあ?」
 とテレビに向かって茶々を入れるのも、今のドラマの見方だ。Jリーグやナイターを見るのと大差ない。そういう場合、優秀な脚本家の脚本にたまたま練りが足らなくても、結果的に、それさえも視聴者を喜ばす小道具になってしまう。
 優秀でない脚本家予備軍にとって、今ほど楽にデビューできる時はないのかもしれない。
 コンクールで入賞してこの世界に入ってきた新人たちは、「視聴率を取るには、まず身体障害者の子供を登場させることだ」とプロデューサーにいきなり言われて、ギョッとなんかしちやいけない。
 足の不自由な少年が車いすから転げ落ち、父親の許へと涙ながらに這いつくばるシーンを、それがドラマの本線であろうがなかろうが、社会福祉についての問題意識があろうがなかろうが、照れずに、本気で面白がって書かなければならない。
 こういう風潮の中で、出来るかぎりの人生論をドラマでやりたい、と気負う僕のような脚本家は、プロットにおいてペラ250枚の説得材料を必要とする。
 
 公開間もない『高校教師』を渋谷宝塚に見に行った。
 死ぬほどお客がいる。視聴率30%を代表するお客の顔をそこかしこに見ることができる。
 彼らはイベントに参加してきた。年に1度しか映画に来ない彼らは、こういう時のために1700円を取っておいたのだと思えるほど、ワクワク胸がはずんでいる様子が手に取るように分かる。
 何だかんだ言いながらテレビ版のファンであった僕も、彼らの期待する気侍ちはよく分かる。森田童子の音楽と真田広之のナレーション。あのもの哀しい語り口は最近のドラマの中では比類のないものだった、と思い返す。
 渋谷宝塚の壊れそうな椅子に座った。
 そして映画が始まった。
 そして映画が終わった。
 
 以下は、単なる金を払って見た観客としての感想である。映画の関係者の方々はあまり気にしないで読み飛ばしてほしい。
 僕はノレなかった。
 この映画は一言でいうと、病気の主人公が、それよりもっと病気の人間たちに抹殺される物語だった。どの人間も悲劇的だけど、何故かその末路は悲しくない。狂った人間たちに見合ったトラウマが、あまりに行儀よく配置され説明されるからだろうか。
 例えば、荻野口慶子の音楽教師は、生徒の部屋をビデオで監視する偏執狂だ。どうしてそんな女になったかというと、夫に完全な妻を要求されて苦しんだ、という前歴が修羅場の中で説明される。これは人物造形における最低限度の原因説明である。いい脚本には完全な妻とになれなかった女からビデオ監視の偏執狂の女になるまでに、あと一つ巧みな説明があのでは、と脚本家でもある観客はつい思ってしまう。
 オーディションではきっと光るものを見せたんだろうけど、ヒロインの新人女優にまったく魅力を感じなかった。
 彼女に父親をピストルで殺して家の庭に埋めたという過去があるのなら、女子寮なんかに入れさせないで、ジョディー・フォスターの『白い家の少女』を、あの高校教師との関係でやればいいのに、と思った。
 鈴木杏樹が後ろから高校教師を刺すくだりでは、僕は心底驚いた。だけど視聴率30%のお客たちは、驚くかわりに笑ってウケていた。彼らの方が楽しみ方を心得ている。
 映画が進むにつれて、本当に彼らはよく笑う。
 まだ映画を見ていない人も多分知っていると思うけど、この映画はコメディではない。

 ともあれ、この映画の興行的大成功で、テレビの連続ドラマが映画になったり、テレビドラマ的作法で映画が作られる、そういうことに可能性を感じるテレビ製作者が増えるかもしれない。
 それは歓迎するとして、映画会社から企画力や宣伝力が失われていくとしたら、ちょっとヤバイ気がする。


野沢尚著書より


2008-12-01 01:00  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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