映画館から失われる1つのブランド [「映画館に、日本映画があった頃」]
映画館から失われる1つのブランド
角川映画の終焉らしい。
76年の『犬神家の一族』に始まって、70年代後半から80年代にかけて、角川映画は日本映画の主流だった。
今回の社長逮捕劇でコメントを求められていたある映画評論家は、大量動員、物量作戦で批判能力を持たない若い観客を映画館に引きずり込み、それが日本映画を破壊した、という意味のことを言っていた。
僕が『犬神家の一族』を見たのは高校1年、あのおぞましい映像美は刺激的だった。『人間の証明』も『野生の証明』も、日本映画にもこんな豊かな、アメリカ映画に限りなく近い大作があったのか、と映画の大量宣伝を見てるうちに錯覚し、映画館に割引券付きの角川文庫のしおりを侍って足を運んだ。見終わった後、どこかはぐらかされた気分ではあったけど、批判能力を持だない僕らは「まあいいか」と簡単に許せて、入場料返せ、なんて言わなかった。
豊かな時代だったのだ。
『獣死すべし』には衝撃を受けた。痩せ細った松田優作の顔立ちに、本物の狂気を見たような気がした。
そして映画の仕事を目指そうとしていた頃、角川映画は最盛期を迎えていた。新宿東急で『探偵物語』と『時をかける少女』を見るのに、どれだけ苦労したか。長蛇の列が続き、上映1時間前に並んでやっと席に座れた。その頃の僕は、その評論家が言う、映画館に引きずり込まれた観客の1人であったかもしれない。で、そこまでして見た価値はあったのかと思い返すと、やはりちやんとあったと思う。
評論家はテレビで「映画の質としてはどれも低かった」と述べていたが、それは納得できない。どこが質的な合格ラインかによるけど、角川映画が質的にも日本映画をリードした瞬間は、確かにあったと思う。
例え角川映画が大衆娯楽の域にとどまっていたとしても、日本映画におけるその位置づけを語らないのは片手落ちではないだろうか。
角川映画が現れるまでの70年代半ばといえば、日本映画は『男はつらいよ』と『トラック野郎』と百恵・友和……言わば中規模のプログラム・ピクチャーで何とか体裁を整えていた。ひょっとしたらその頃、日本映画は「もう作るのやめたい」という気分だったかもしれない。そこに角川春樹が登場した。要するに、リスクを背負って映画を作ろうとする彼の情熱(広義の意味で)を、日本映画は徹底的に利用したのだ。そして、惜しげもなく金を注ぎ込んでくる門外漢に、ただただ圧倒された。
極論すれば、角川映画にすがることて日本映画はその後の10年以上を、騙し騙しで存続できたのだ。
今のこの程度の存続なら、その頃に壊れていた方がよかった・・・・と斜に構えて言う人がいるかもしれないけど、あの一群の映画があってこそ、花開いた才能もあったはずだ。角川映画に対するアンチテーゼとして、マイナー・リーグから現れた映画作家も一方でいたはずだ。
で、今、日本映画はどうなっているのか。
角川映画はなくなる。角川さんのキャラクターと一脈通じていた奥山さんは現場から一歩退いた。伊丹さんの映画も峠を越えたような気がする。製作費二億円台の中規摸作品は、昨年の秋からことごとくコケている。かろうじてアニメだけ。
誰がこれから先導していくんだろう。
脚本家にその可能性がめるのだろうか。
一色選手がアジアと90年代のカルチャーをくすぐりながらコメディを作る。野島選手がテレビで当てたことを映画館に持ち込んでティーンを集める。
ノザワが何だかよく分からないけど、とにかく仕事をする……それで何かが変わるのだろうか。
どうやら、狂人であろうが径人であろうが、角川さんのような、何かに取り憑かれてリスクを背負っちゃう人間を、日本映画が再び利用しない限り、この状況は変わらないような気がする。そういう人間が登場して、また日本映画はこれから10年間を騙し騙しで続くのだ。
リスクを一身で背負った文字通りの『危険人物』がもう現れないのだとしたら、日本映画はギリギリまで耐え続け、ある目突然、自民党のようにコロッと倒れてしまうんだろうか。
日劇東宝も、丸の内松竹も、渋谷東映も、ある日を境に洋画の上映館になるのだろうか。
邦画の上映は春夏秋冬休みのアニメ番組だけて、毎年暮れの各映画会社のド派手なパーティも恥ずかしくてやれなくなり、来年度のラインナには配給するハリウッド映画が並び、日本アカデミー賞も視聴率低下を表向きの理由に打ち切りとなり、各種映画賞も「今年も本数微少につき、該当作なし」となるのだろうか。
一度そうなった方がいいのかもしれない。
徹底的に駄目になった時に出てくるものが、本物なんだと思う。
さて前置きが長くなったけど、『REX恐竜物語』である。
9月4日の土曜日。渋谷松竹セントラルに見に行った。そこはさながら遊園地である。子供たちが通路を走り回る。父親が客席で記念写真を撮っている。
この映画について質を論ずることは、誰も必要としていない。今朝 フジテレビの情報番組で角川事件に触れて、猪瀬直樹が「とにかくあの恐竜映画は幼稚で話にならない」と声をひきつらせて言っていたけど、『REX』の作り手たちはハナっから猪瀬直樹のような知識人に見てもらいたいなんて思っちやいない。
この映画は小学生以下を相手にしている。子どもと恐竜のじゃれ合いを延々と見せ、悪役は分かりやすく黒ずくめで、子供と母親の和解はとにかく抱き合うことで収束する。そういう『形』だけを子供に理解させるのが、この映画の使命であった。
客席でぐるりと回りを見渡して、喜ぶ子供たちの声を聞き、その使命は充分果たしていると思った。
ただ1つ知りたかったのは、映画の底に見え隠れする角川監督の『ある本心』についてだ。
『REX』で監督が描きたかったのは、一言でいうと、母親への慕情だったと思う。恐竜と子供の疑似母子関係が、子供とその母親との関係修復の橋渡しになるというのが、基本的な購造である。
角川さん個人にどういう母子関係があったのか、満たされていたのか満たされていなかったのか分からないけど(テレビの情報によると、そこにあの人の人間的欠落点があるという言い方をしていたけど、そんなことがお前らに分かるのか、と言いたくなった)、母への慕情という『本心』を、じっくり腰を据えた私小説的な映画では描かずに、大甘の子供映画という形でしか描こうとしなかった大衆娯楽映画作家の悲しい性が、僕は痛々しくて切なかった。
巨大なメディア・ミックスという足枷を、自分で自分の足に嵌めてしまった人の映画なんだと思った。
角川さんが将来社会復帰し、再び映画を撮れる環境になったとしたら、是非撮って欲しい映画がある。
製作費は3億ぐらいて文庫本の売れ行きなどは気にすることなく、宣伝費もわずかしかなく、テレビに出演して「俺はヒーローなんだ」と言わなくてもいい環境で狭くて祖末なスタッフルームだけどベストスタッフを揃え、清らかな映像美に満ちた『母を訪ねて三千里』をこの人に作ってもらいたい。
泣ける映画になるような気がする。
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ぐっとれさま
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by 野沢 (2008-10-30 10:48)