SSブログ

映画館の彼方に、はたして楽園はあるのか [「映画館に、日本映画があった頃」]

映画館の彼方に、はたして楽園はあるのか

 みんなマスコミの目くらましだ。
 家族の時代だと言う。バブルが弾けた不況下、サラリーマンのサービス残業もなくなり、ストレスもなくなって栄養ドリンクは売れ行きサッパリ、土鍋が売れて、定時には家庭に帰るお父さんを待って、家族団欒の時代が訪れたのだと言う。
 嘘つけ、と思う。
 不況で経済的に貧しくなったのなら、もっと悲惨な家庭崩壊劇が存がしているに違いない。バブル景気の時に崩壊していた家族は、養育費は5万にするか6万にするかの戦いだった。今は違う。5万3千円にするか5万4T円にするかという千円単位の攻防になっているはずだ。亭主も女房も子供もきっと本性を現し、ドロドロの家庭崩壊劇を演じているに違いない。マスコミはその事実に目をつぶって、家族の時代などと言っている。
 家族は解体する。ならば、できるだけいい解体の仕方をするべきで、そこに人間の幸福を見出すドラマや映画があっていい。いや、あるべきだ。
 今夏から放送明治になるフジテレビの連続ドラマは、これをテーマにしてみようと思っている。
 『ひき逃げフアミリー』という映画が、崩壊家族をテーマにした現代の風刺劇だと聞いて、見たくなった。
 発想の発端は新間記事だという。ひき逃げを隠蔽しようと、自宅の居間で車を解体した男がいたそうだ。
 面白い。その記事を当時僕も読んでいたら、すぐに読売テレビの鶴僑さんに「聞いて下さい、 こんな話があるんです」と浮かれ声で電活して、1週間後には企画書にして、4ヵ月後には浅丘ルリコさん主演で2時間ドラマになっていたかもしれない。
 家族なんか解体すればいいんだ、と思っている主婦がいる。息子も娘も『家庭』という劇場でそれぞれの役を演じてはいるが、実は母親と同様、こんな家なんてなくなっちまえ、と日頃思っている。
 そこに事件。父親がひき逃げを犯した。すると、家族解体が現実化しそうになった時、母も子供たちも家庭にしがみつく。何とか父祖の犯罪を隠蔽しようとする。みんなで一致団結して家のリビングに車を入れる。バーナーで解体して『燃えないゴミ』にしようとする。ところが車とは実に厄介な代物だった。何かひねるとオイルが噴き出す。パーツがぎっしり詰まっている。鉄の怪物だ。みんなヘトヘトになる。その作業に没頭する彼らはトランス状態に陥る。鬼気迫るソウ状態。だけど彼らは初めて家族という『劇場』にアイデンティティを見い出した。自分はこの家にとってなくてはならない存在なのだ!
 車はついに解体した。その時同時に、再生しようとした家族も解体してしまう。
悲しい話だ。

 しかし、シネマアルゴ新宿のスクリーンに映された物語は、必ずしもこうは作られていなかった。
 ホン作りに1年以上かかり、やっと決定稿にこぎ着けたという、僕と同じ城戸賞出身の脚本家には敬意を表する。いろいろ試行錯誤があって、この形に落ち着いたのだと思う。オリジナル脚本を映像化する道のりの困難さは僕だってよく知っている。
 僕がこれから書く批判は、ひょっとしたら素材に対するアプローチの仕方の違い、作家性の違いに過ぎないことかもしれない。だけど映画を見てから1週間以上、この意見を書くべきかどうするか考え、やはりこれがこの映画を語る上で最も的を得ている意見だと自信を侍つことができたので、書くことにした。
 回りくどいエクスキューズをしてしまった。本誌にこのエッセイを書いてがためにあちこちで風当たりが強いらしいことを、東映の新年会で荒井晴彦氏に聞かされて以来、ちょっと弱気の僕である。

 この映画の最大の欠陥は、彼ら家族がひき逃げ隠蔽を決意するまでに至る、狂気へのバネが描かれていないことである。大の犯罪を知ったヒロインは、自首しようとする夫の前に「待って!」と立ちはだかり、家族を前にして「起こったことは仕方ない、不幸な事故だった、でもこれ以上不幸な人間を増やしちゃダメ。守るのよこの家を」と一席ぶつ。すると長男が「僕等だけの秘密だね」と笑みを浮かべる。そしてヒロインが「私に考えがある」と、車の解体を提案するに至る。
 このシーンを見て、僕は、この家族が隣に往んでるかもしれないような人間たちには到底思えなかった。
 亭主が人をはねた。殺人の凶器となった車が目の前にある。被害者の鮮血がこびり付いているかもしれないその車を、家の居間に隠そうと思いつくまでに、ヒロインの心理にどんなトランス状態加あったのか。『恐怖』という日常感覚から、家族はどう飛翔して『狂騒』という非日常空間へと突っ走ったのか。
 もし僕かモトネタの新聞記事を読んでいたとしたら、その点に最も興味を感じたはずである。決して、ひき逃げの車を家に隠して解体しようとした状況のおかしさだけではない。
 突飛な行動に走ってしまう現代の閉塞的な人間像にこの映画の作り手たちは興味はなかったのだろうか。恐怖を乗り越えたのかどうなのかも定かではなく、あっさりと行動に移す家族たちが、僕は不気味でならなかった。その不気味さを作り手は狙ったのだろうか。
 ここに出てくる登場人物は、ひき逃げ隠蔽工作という面白い状況を早く映像で見せるための『駒』……という風にしか僕には見えなかった。作り手の意図に動かされているスクリーン上の虚像に過ぎない。そう思った瞬間から、僕はこの映画にノレなかった。
 長塚京二の芝居の巧みさ。
 隣人が、ひき逃げ家族に捨てられたマネキンをおじいちゃんの死体と間違えて疑惑を深めていくシークエンスのサスペンス。
 車体をバーナーで焼き切っていく炎の、何とも頽廃的な輝き。
 クライマックス、家事の中から脱出していくカタルシス。
 それらをおおいに認めたとしても、やはりノレなかった。
 最初の躓きが全てだった。

 ラスト、切り貼りしたような即席の車に乗って、家族は旅立つ。
 家族の再生を予感させるような、一本路をのどかに走っていく姿でエンディングとなる。
 彼らにはたして楽園は存在するのだろうか。
 あの路の彼方に何が侍っているのか。それは結局、自滅的な末路に過ぎないのではないか?
 作り手たちが意識したという『ゲッタウェイ』のラストシーンー――国境を越えていく犯罪者夫婦の姿に、僕は楽園の希望なんて全く感じなかった。スベイン版の『ゲッタウェイ』には、路の彼方で待ち受ける警官隊によって、二人が射殺されるというラストシーンが付けられていたと言う。
 ぺキンパーはそこに固執し、しかしハリウッドは許さず、ああいうラストに落ち着いたのだとしても、僕は砂埃を上げて遠ざかっていく彼らに、何やら終末の予感を感じて切なかった。あの映画は決して、セオリー破りの、『犯罪者は生き延びる』とうたいあげた痛快なクライムストーリーではない。
 家族は解体する。問題は、解体の仕方だ。
『ひき逃げファミリー』のラストを見て、僕は自分がこれからやろうとしている仕事に照らし合わせ、改めてそう思った。



2008-08-07 13:11  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証: 下の画像に表示されている文字を入力してください。

  ※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
 

このブログの更新情報が届きます

すでにブログをお持ちの方は[こちら]


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。