映画館の暗闇より暗くていじましい世界で [「映画館に、日本映画があった頃」]
映画館の暗闇より暗くていじましい世界で
結局、年末に仕上げようと思っていた映画のオリジナルプロットは頭の中でグジャグジャとまとまりがつかぬまま、新しい年を迎えてしまった。
ここ1、2年必ずそうなんだけど、この時期、「誰それが忘年会の流れで、ノザワさんたちのことをこんな風にいってましたよ」という話が自然と耳に入ってきて、いくらか不愉快な年末年始になる。
「一色やノザワみたいな若手の作家なんて、××で××なんだから」という先輩同業者の陰口である。仲問同士のほざき合いなら勝手にやってちょうだい。いろんな人がいろんな事を言う世界だ。間接的に耳に入ってくる悪口や、根も葉もない中傷にいちいち眉を吊り上げるのも阿呆らしい。
とは言え、若い取り巻きを相手に、同業者の悪口を酔いにまかせて得々と喋り、若者たちも目をキラキラさせてそれを聞いている居酒屋の光景を想像すると、何て暗くていじましいんだろう、と思ってしまう。
打ち合わせが終わったら家に直行してワープロを叩くのが今の若手作家で、酒場で無駄な時間を過ごすということをしない……とは、僕等についてよく言われることだけど、その有意義な無駄な時間とはどうやら、居酒屋の暗がりで後輩ライターの蔭口で憂さを晴らすことらしい。
さて、この正月の映画界で同じ脚本家が作品を2本並べ、おそらく僕以上に、酒場の暗がりでイロイロ言われてるに違いない一色選手の新作である。
彼の次のテーマがホスピスと聞いた時には、危ない橋を渡るなあ、大丈夫かなあ、と思ったりした。田舎者を笑い、やくざを笑い、金を笑い、エコロジーを笑った果てに来たテーマが『死』というのは作家のエスカレーションとして当然とも思えるが、料理に失敗したら大変なことになる……
と、おそらく彼自身、素材の危なさを相当自覚していたに違いない。
映画が始まって20分ぐらいして、「あ、こういうタッチのアメリカ映画を見たことがあるぞ」と妙な既視感に襲われた。ビリー・ワイルダーでぱない、プレストン・スタージェスだろうか、あるいはフランク・キキャプラだったろうか、死期を悟った主人公が死ぬまで明るく生きるという喜劇が古き良き時代のハリウッドにあったような気がする。
この原稿を書いていても思い出せないのだから、ただの思い違いかもしれない。
平凡極まりない若い女がいる。癌だと分かった。パニックになる。自分の運命と折り合いをつける。死期が間近いことをアピールして世間の注目を集め、有名人になる。平凡だった頃とは比べ物にならないほど毎日が楽しい。自分の悲劇をネタにお涙頂戴のストーリーを提供しながら、心の中では大衆に対してペロッと舌を出している。病院に戻る。生きることの意味を知る。そして恋人の胸に抱かれて死ぬ。
この映画のストーリーを要約するとこういうことである。
しかし、ハリウッド調のストーリー展開を期待しながら見ていると、いくつかツボの押さえの甘い箇所に気付く。
まず冒頭、ヒロインの平凡な日常描写か弱い。「男は取られる、仕事じゃワリ食う」というキャラクターを際立たせる作業をあまりしていない。年下の美容師に仕事を言いつけられたり、カラオケののマイクを取られる、というのでは今一つだ。哀しくなるほど普通の人生、というト書きで描かれる子供の頃からの写真構成も、それは文字世界で意味が伝わっても、画面を見る限りは、ただアルバムをめくっているようにしか見えない。
ハリウッドだと、このヒロインを始めの10分で徹底的にくすんだ女として描き、後半の、有名人となっていくキャラクターとの落差をくつきり付けていくだろう。
僕なら、後にヒロインが書く自伝の文章をナレーションに使って、発病までの自分の平凡な20数年間を白嘲っぽく語るという無難な手を使うかもしれない。
そして後半、ヒロインが有名人になる茶番劇を終えて病院に戻ってくるあたりからの気持ちの変化も、やや曖昧に処理されている。
「とっととモルヒネ持ってきてよ、のろま」と弟医師を罵ったヒロインが、後に彼のために代理店報酬を病院に贈与するまでの気持ちの雪解けは、どう見たらいいんだろう。
ラスト、弟医者に抱かれ昇天していく彼女は切なく、泣ける。しかしもっと泣けた。ラブストーリーとしての映画を見たとき、彼女の心情変化をウラに隠したことは―――おそらく作家の狙いだろうけど―――マイナス効果になっていないだろうか。ホスピス患者が次々に果てていく後半は、この危ない素材を扱ってしまったツケが一気に回ったようで、ドラマ展開に付きまとう死の愁嘆場をどう扱っていいのか、脚本も演出も収拾つかないでいる感じだ。そこらへんの描写を捨てても、ヒロインと弟医師との関係にドラマを絞ることはできなかったのだろうか。
・・・・・・と、いろいろ文句を書いたけど各論に過ぎない。
この映画の総論、つまり癌告知されたヒロインが世間を相手に茶番を演じ、その果てに何を摑んだのか、大袈裟に言えば、死に至る彼女の辿り着いた人生論とはどういうものなのか・・・・・。僕は映画の中盤から、ヒロインは一体最後にどういう言葉を操り出すのか、息を殺して待った。そこさえ鮮やかに突き技ければ、 この映画は各論において欠点があっても成功作となりえる、と思ったのだ。
ラスト近く、彼女はこう言った。
「みんなひとりで泣きながら生まれてきて、泣きながら死んでいく。でも・・・・・生きているうちにいっぱい笑えば、死の瞬間に思い出し笑いくらいはできるかもしれない」
いい台詞だと思った。
人生論として最上段にふりかぶる訳でなく、ヒロインの等身大の言葉として感動的な台詞を一色選手は書いた。
ところが、この台詞が最高に効果的に使われているかと言えば、残念ながらそうとは言えない。
一つには、それを聞いた時の弟医者のリアクションに情緒が足りないこともあるが、それ以前のシーンがこの台詞の効果を邪魔している、と思った。
ヒロインは「愛と死を見つめちゃった」という自伝を書いている。ハーレクインロマンスに泣く読者層に、徹底的にお涙頂戴物語をデッチ上げようとする。ここは笑えるが、ここで笑えた分、その後にくる感動的な台詞を殺した。ラストの台詞さえも、ひょっとしたら「愛と死を見つめちゃった」の延長線上のウソではないか……と観客に思わせ、素直に泣けないフィルターがかかってしまったように思う。
ここでも、ヒロインの感情をウラにしてしまったことが裏目に出ていないだろうか。
結論を言う。僕はこの映画を楽しんだ。前作『病院へ行こう』よりも登場人物に感情移入できた。しかし傑作にはなならなかった。なりそこねた。
一色選手は、ハリウッド調の展開にも、ラブストーリーにも、このテの映画にありかちな『泣き』についても、おそらく筆を取ることを照れたに違いない。
僕なら、そこらへんの描写についてはグリグリいっちやう。
彼はいかない。
僕はグリグリいったがために、時として大失敗をする。
彼はいかなかったがために、時として失敗をする。
ま、そういうことだ。
しかし、酒場の先輩に言われた訳でなく、この頃思うのは―――
そろそろ『若気の至り』は理由にできないなあ、ということである。
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