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映画館に映した嘘を、彼らは楽しむことができたのか [「映画館に、日本映画があった頃」]

映画館に映した嘘を、彼らは楽しむことができたのか

 とかく嘘がつきにくい。
 ハイテクビルをテロリストが占拠したり、殺人ロボットが未来からやってきたり、よほど大仕掛けで、強引に、嘘の世界に投げ込んでやらないと、彼らは満足しない。
 仕掛けに充分な労力を注ぎ込めない日本映画は、仕方なく日常的な世界で、嘘を嫌い、情感と共感で彼らを納得させようと、ストトリーの隅々までリアリティの綻びがないように神経を使う。
 嘘をつきたくてたまらない僕のような日本の脚本家は、時々、ショーン・ブラックやジェフリー・ボームやスティーブン・E・デ・スーザが羨ましくなる。先月のように製作費13億で仕事が頓挫したりすると、生まれる国を間違えたんじやないか、とさえ思ってしまう。
 だけど、ひょっとしたら、大仕掛けがなくても『嘘』を楽しんでくれる芽が、日本映画のどこかにあるんじやないだろうか。
 それを確かめたかった。
 僕にとって『赤と黒の熱情』という仕事は、近い将来、大嘘をつくための一種の実験映画だったかもしれない。
 骨組は任侠映画である。
 それは否定しない。
 組への義理と友情の板挟みから、親友を殺し、罪の意識を背負った主人公。経済活動に精を出す現代ヤクザ。消えた暴力団の金をめぐる闘争。銃撃戦。
 しかし、僕をリハビリさせてくれた東映の方々には恩を仇で返すような言い方かもしれないけど、僕は東映のやくざ映画というジャンルにはほとんど興味がない。
 今回本当にやりたかったのは、ただ一つ。
 過去を失った女に、過去を取り戻すという記憶喪失ドラマの常套ではなく、例え哀しく空しい悪あがきであろうと、偽りの過去を用意してやることで別の人生を与えてやろうとした男の物語……
 女の過去を塗り潰すことは、男白身の罪の過去を消すことでもある。しかし、愛する女に虚構を与えてやればやるほど、男の心には罪が重くのしかかってくる。そして全てが破綻した時、この2人にはたして愛が戻るのかどうか、銃弾と硝煙というギリギリの状況の中で寄り添う瞬間までを描きたかった。
 「物語の筋立ては浅はかに尽きる。それを正当化するもっともらしい口実をいくら重ねても、やはりバカバカしい」という批評があったが、僕も登場人物たちもただ無邪気にはしゃいでいる訳ではない。茶番のバカバカしさをちゃんと自覚して、夢の醒める瞬間を恐れている。「シティロード」や「キネ旬」の批評家は、その点を感じとってくれなかったようだ。
 フランク・キャプラを狙ったことは、誰の目にも明らかだと思うけど、では何故、今、キャプラの『ポケットー杯の幸福』なのか、と問われたら―――
 善意の人々が傷ついたヒロインのために茶番を演じていく、というこのドラマ性が、今ひとまずできる、壮大な嘘をつくための最初の模索だった、と答えるしかない。
 映画の中盤から後半にかけての展開―――茶番を演じる主人公たちの右往左往、その芝居が剥がれそうなサスペンス、剥がれてしまった後の主人公とヒロインの悲しい対峙・・・・・・・」まで、どれだけ
観客をノセられたか。
 ノッてくれたら、次の仕事で次なる嘘へいける。
 試写の後の打ち上げで工藤さんに同じことを言ったら、「客の顔色なんか窺わずに、自分のやりたいことに自信を持つべきだ」と叱られたけど、今回の仕事に限っては彼らのリアクションを映画館で確かめたい。

 おそらく脚本を読んで映画を見た人も同様に感じることだと思うけど、今回の文字世界と映像世界のテイストの違いは歴然たるものがある。僕と工藤さんの個性がぶつかってしまった結果なのか、あるいは両者の個性が程よくブレンドされた結果なのか・・・・・・この判断はむずかしい。
 今回、映画館で見るのは4回目だが、まだ自信もって言えない。
 明らかに狙いが食い違ったのは、ラストの銃撃戦である。銃弾の大安売り的クライマックスを最初ラッシュで見た時、「ち、違うだろ!」と心の中で叫んでしまった。
 以前 このエッセイでも書いたことがあるが、日本のアクション映画の最大の欠点は、銃弾一発一発の重さを描かないことである。口径9ミリの鉛の固まりが瞬速で肉体にのめり込む衝撃と痛みを、どうして先輩たちは描こうと努力してこなかったのか。サム・ペキンパーから学ぶべきものは、あのスローモーションだけなんだろうか。
 引き金を絞り、照準に入った敵に弾丸を撃ち込む際の、主人公の危機感覚と憎悪と殺意をいかに描写するかにかかっている。
 それにトライしてみたかった。
 敵方は6人。盲滅法撃ってくる。しかしこちらの拳銃は1丁。弾は6発。一発必中で1人1人を倒してい
かねばならない。
 最後に敵の親玉が残る。主人公とその敵は、ここに至っては、やくざ対やくざの戦いではなく、1人の女をめぐる争奪戦となる。敵方の嵐のような弾丸を体に受けながら、あと1発残った弾丸を撃ちこむため至近距離まで近づいていく主人公の捨て身の闘争
心を、熱く、厚く描いてほし・・・・・・というのが、映像化に際しての切なる願いだった。
 脚本の最終段階まで、工藤さんもその点に全面的に同意してもらえた。
 結果として、僕の意図が180度違った形で映像化されたのは、そのくだりを厚く描くための撮影現場が見つからなかった、ということが原因である。シナハンで出掛けた横須賀の猿島を見た途端、いろいろとアクション場面の閃きがあった訳だけど、いざ撮影準備になった時、そこで脚本の意図通りに撮影することは不可能だった。僕の状況判断が甘かったせいかもしれない。
 決定稿では同意してくれた。しかし撮影現場の問題を経て、工藤さんの頭の中で大胆な発想の転換があったのだろう。
 「映画は『明日に向かって撃て!・・・』のクライックスを意識したんですか?」
 と打ち上げの時、質問した。
 しかし工藤さんは肯定とも否定ともつかない笑みを浮かべるだけだった。
 もっと突っ込んで聞けばよかった。

 僕は巧妙な『嘘』をつくために、ディティールを補強することに神経を使った。本来、台詞もト書きも饒舌な作家である。
 ところが工藤さんは『空気』を捉えようとする監督だった。何よりも嫌うのは饒舌な説明だった。
 『赤と黒の熱情』という作品世界に対するアプローチが、脚本家と監督の間でこんなにも違っていた。
 例えばアバンタイトル、兄の死体に駆け寄るヒロインの声を背中で聞き、主人公が愕然と振り返るカットが何故ないのか。ヒロインの傷つき方を目の当たりにする大事な表情のはずである。僕の生理ではどうしても外せないカットなんだけど、工藤美学の上では必要ないと判断されてしまう。
 しかし、あるシーンでは、あざとすぎる仕掛けのまずさを、情感をそぐことで目立たぬようにしてくれた気もする。
 完成映画だけ見ると、雑な脚本と受け止められそうだが、説明過剰によって嘘の上塗りがミエミエになりそうな脚本の欠点を、工藤さんは「説明を切って切って切りまくる」ことで、補ったのかもしれない。
 「切った」理由は、実は、最初のオールラッシュが2時間半もあったという現実的な問題が先にあったのだけど、この容赦ない切り方には、僕も陣内氏も唖然とした。
 「監督が特別出演するシーンなんか切ってさ、他のところを復活させて欲しいよね……」と、2人でつい愚痴ったりもした。
 でも、封切りになった今(5月4日)実際に映画館で見てみると、この完成作品がむしょうに可愛い。
 女性シェフの恰好をして鏡の前に立ったヒロインが初めて笑顔を浮かべるシーンは、何度見ても愛おしい。
 麻生祐未はイイ仕事をしたと思う。
 台詞回し、一瞬の目線、感情の歯止めの掛け方、爆発のさせ方……こちらが期待する芝居を、ちゃんとプラスアルファをつけて返してくれる二十代半ばの女優が、やっと見つかったという思いである。
7月の根岸祖にも出てくれる。しばらくこだわってみたい女優の1人だ。

 今回の仕事を終えての課題。
 ベクトルの違った作家性と当たった時、いかにして共存していくのか、あるいは、いかにして自分のベクトルに引きつけたらいいのか。
 ホン作りの最後の最後まで、あちらが辞易するほど文字世界の個性を押しつけるような、もっと粘着質な作家になってやろうか。
 「こんなにト書きがネチっこいんだから、もう充分だよ」と、これから仕事をする監督さんの声が聞こえてきそうたけど。


2007-12-06 07:04  nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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