原作者と脚本家の二重構造(後編) [野沢コメント記事]
月曜日(3/12)掲載記事の続きです。
数多く参加した映画の中で、野沢自身が本当に満足のいく作品がどれほどあったのだろうか・・・・・。
「破線のマリス」は、野沢にとって本当に満足のできた数少ない作品の1つだったのだと思いました。
井坂監督との出会いも、一緒にお仕事させていただいたことも、野沢にとっては嬉しいことだったようです。
『破線のマリス』創作ノート
原作者と脚本家の二重構造
さて、僕は今回、原作者であり、脚色者でもある。
それでもやはり、原作者の顔色を窺う。
「この原作の分量を考えたとき、2時間サイズには絶対収まらない。中盤で起こるもうひとつの殺人事件と、警察が動き出すシークエンスはバッサリ切りたいんだけど、文句ないよな?」
と脚色家の僕が尋ねると、
「まあ許そう。ただし、原作の最後の一行が大テーマなんだから、それをうまく映像にしてくれなかったら、許さないからな」
と原作者である僕が恫喝する。
映画化が決まってからというもの、僕は二重人格となった。
井坂監督が「ヒロインが自己検証ビデオを作るラストを変えたい」と言い出したときには、原作者と脚本家が一致団結して、「いや、これこそがマスコミの自浄作用を訴える大事なエンディングなんだから」と抵抗をする。
だが、「テーマをくどくどと口で説明するような終わり方でいいのだろうか・・・・・・」という監督の意見には、悔しいが考えさせられるものがあった。
そして具体案が監督から出された。
ヒロインの笑顔も映像素材となる、という締めくくりはどうか。
そのアイディアは強烈な説得力を持って、原作者であり脚色家である僕を突き動かした。
小説は文字、映画は映像、小説は饒舌に訴えかけるのもよし、しかし映画はとは観客に想像させるもの・・・・・この違いを改めて思い知った。マスコミはどう自浄すればいいのかは、観客に考えてもらうことにした。(できれば小説を買ってもらって答えを確かめてくれたら・・・すごく嬉しい)
何度見ても、僕らはいいラストシーンを獲得できたものだと思う。
原作を書き、自分で脚色する。
山田太一さんは「やめた方がいい。映像を前提にして書くと、小説が細ってしまう」という貴重なアドバイスをいただいた。
でも、やる。
原作者と脚本家という相容れない人格を共存させる術を、今、摑みかけている。
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