SSブログ

旅の終わりに…… [「映画館に、日本映画があった頃」]

「映画館に、日本映画があった頃」のあとがきに当たる文章です。掲載当初から寝た子を起こすみたいな過激な文章に一部編集して掲載も検討したのですが、30代前半という一番ギラギラとして仕事に意欲を持っていた頃の野沢自身の心情を書いたものなので、そのまま掲載しました。 しかし、前回も書きましたように、その後お仕事をしていく中で関係各所との関係改善はされておりますので誤解のないようにお願い致します。

「旅の終わりに……」

 数えてみると、全53本のエッセイだった。
 それは、他人の映画を俎上に載せての、脚本の技術論だったかもしれない。効果的な伏線とは何なのか。劇的構成とは何なのか。デビュー10年の若造が書く技術論だから、先輩の同業者たちが読むと失笑モンかもしれないが、脚本家志望者と脚本家の違い、といったことぐらいは言及できたように思う。
 こうして全回分を読み返してみると、野沢という脚本家の、創作に向かう際の一定の法則や思考回路といったものが窺える。
 根底にあるのは、本格ミステリーのパズル性のように思える。小学校5年生の時にヴァン・ダインの文庫本を手にとってしまった男の宿命なのか、伏線や種明かし、といった作為に異常なこだわりがある。
 また、これはデビュー当時から、僕の育ての親とも言えるテレビの監督に教えこまれたことだが、常に登場人物が『哀しく』ないと許せない。だから、過去をほり下げず、内実に一歩も迫っていない人間造形は徹底的に批判している。
 そうした技術論とはまた別に、このエッセイは自分自身の30代前半の記録だった。
 仕事への絶望と希望。ストレスや病気。家庭状況。
 ここまでさらけ出さなくてもいいのに、と思える文章もある。案外僕は露悪趣昧なのかもしれない。
 きっと、文章に吐き出して少しでも楽になりたかったのだろう。
 例えば、深作さんと作ってきた脚本の顚末。
 浮き沈みを繰り返し、結局、映像化不可能の烙印を押された。
 映画にできないのなら、小説にしてやる。
 執念だった。
 やっと今年(94年夏)、2か月のスケジュールを確保して、酷暑の中、書き上げた。
 出版について面倒見てくれそうな会社もあったけど、僕白身の再出発にふさわしい発表の仕方をとることにした。
 城戸賞というコンクールで出発したこの10年だった。ならばもう一度、野に出て、自分の力を試してみたくなったのだ。
 出来については、ほんの少し、自信がある。
 エッセイの終盤で、もう脚本家をやめたい、と書いたら、実に多くの人達から「あれは本気づすか?」「人騒がせであんなこと書く訳ないよね」「元気出してくださいよ」……と様々な声を掛けてもらった。
 気持ちは本心だ。
 本心だが、僕には僕の戦略がある。
 緩やかにカーブして、自分にふさわしい作家人生を獲得しようと思う。

 技術論であったり、この4年半の記録であったりしたけれど、同業者の批判もした。
 大森一樹さんはまだ怒っているだろうか。僕が書いたテレビ版の『満月』は、1年たっても3年たっても実現のメドは立っていない。仕事場の書架に並んでいる台本は永久にお蔵入りかもしれない。あれほどエッセイで吹いといて実現できないのはかなりみっともないけど、こればっかりは僕の責任ではない。
 批評家の批判もした。
 試写室で映画を見続ける人は、必ず麻痺する何かがある。映画と観客の『商取引』について言及しないことは、映画について書く時、どう考えても方手落ちだと思う。だからその役目を僕が引き受けてやってみた。
 映画を見終わって劇場を出てゆく人たちを窺い、心を読み取ろうとした。
 簡単には読み取れなかったけど、少なくても、映画人は常に劇場にいなければならないと痛感した。
 映画人へのこだわりは一頃より薄らいでしまったけれど、これからも劇場には居続ける。やはり映画が好きだから。
 だから、渋谷宝塚の今にも壊れそうな椅子だけは早く直して欲しい。
 映画の仕事をした。「キネマ旬報」に批評が出た。いい文章だ。しかし、枚数制限のためか肝心な部分に分からない記述がある。
 こういう時に遭遇したら、僕はその批評家に手紙を書こうと思う。
 「その点について、もっと詳しく批評して下さい」
 無視して返事をくれなかったら、2度とその批評家を信用しなければいい。
 これが、作家と批評家にふさわしい距離感だと思う。よくよく考えた結果、僕には、的確な言語で僕の作品を分析してくれる人間が必要なのだと分かった。
 批評家と言われる人たちの限界や欠落点も分かった上で、彼らの見識を必要とする。そんな付き合い方ができたらいいのだが。
  一緒にに仕事をしたスタッフも批判した。
  最終回のエッセイは、業界内でかなり物議をかもしたらしい。特に東映では「何もあそこまで書かなくてもいいではないか」という声も上がっていたと言う。
 あのエッセイは言いたいことの半分ほどだったけど、書いたことについて後悔はない。書いたことでどれだけ自分の仕事場所を狭めるか、それも覚悟の上だ。
 ただ、実名こそ出さなかったものの槍玉に上げたスタッフが、あのエッセイのために社内的な立場を危うくするのだとしたら、心苦しくは思う。
  
『映画館に、日本映画があった頃』
 不遜なタイトルを付けさせてもらった。
 日本映画はどうなるのか。
 エッセイの作業で感じとったことがある。
 番組の穴埋めのためとか、製作会社の自転車操業のためとかで作られた映画は、必ず失敗している。映画が成功するかどうかは、陣頭指揮に立つ者の精神の重さにかかっている。
 汗だくで走れる人。今、そんな人がどれだけ業界に存在しているのか。
 僕は何人か知っているけど、汗もかかず、言葉も足らず、椅子にふんぞり返って金勘定に明け暮れている人の方をむしろ多く知っている。
 少し前までは、そういう人種は駆逐すべきだ、と戦闘的だったけど、今は視界の外に置いておけばいい、ぐらいにしか思えない。
 見放しかのか。覇気がなくなったのか。
 こういう男にシナリオ作家協会・紛争処理委員会の理事は向かないような気もする。
 取材で越前海岸から佐渡を4日間旅しながら、自分は今、何が書きたいのか自問自答してみた。
 どう生きたいのか、何を犠牲にしないとそれは獲得できないのか。人間を理解することはどうしてこんなに難しいのか。
 解禁になったばかりのズワイ蟹をへし折り、むしやぶりつき、食い散らかしながら、脚本の法則なんかより、生きるための法則に早く到達したいと思った。
 最後に、このエッセイ出版に尽力戴いたキネマ旬報社出版事業部の掛尾良夫氏、富田利一氏、そして「シナリオ」誌連載時にお世話になった児玉勲氏に深く感謝します。

 12月18日、機能し始めた新しい仕事場で俺はまだ大丈夫だ、まだ自分を超えることができるのら、と呪文のように鼓舞する日に。

 野沢 尚

 ―完―

野沢尚著書より


2009-11-09 04:07  nice!(6)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 6

コメント 2

gyaro

>映画にできないのなら、小説にしてやる。
心に響いた言葉はこれ以外にもたくさんあります。
城戸賞、、、「V・ マドンナ大戦争」ですね。

もう写真だけにしようかと思ってましたが、
また書いてしまいそうです^^;
by gyaro (2009-11-09 23:02) 

漢

拝読……有り難うございました!
by 漢 (2009-11-11 17:39) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証: 下の画像に表示されている文字を入力してください。

 

このブログの更新情報が届きます

すでにブログをお持ちの方は[こちら]


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。