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映画館に何故、愛着を感じなくなったか① [「映画館に、日本映画があった頃」]

長文なので、分割掲載いたします。

映画館に何故、愛着を感じなくなったか ①

 今年の1月末だった。
『さらば愛しのやくざ』『赤と黒の熱情』で一緒に仕事をし、東映の映画作りの楽しさを教えてくれた東京撮影所の佐藤プロデューサーから電話をもらった。
 仕事のオファーだった。『赤と黒』の興行的失敗以来、東映で仕事ができなくなって2年、やっと出番が巡ってきたか、という思いで企画の内容を聞いた。
 企業モノであるという。左遷されたサラリーマンたちが会社上層部の姑息なぃ首切り作戦に対抗して自分たちの隠された力を発揮してゆく物語であるという。
 それだけ聞けば充分だった。やってみよう。今、東映がやらなければならない映画だと思った。
やくざ映画撤退。次の鉱脈をサラリーマンの闘争物語に求めたのは大正解だ。
 僕自身も、『課長島耕作』でやり残したこと、あの映画では置き忘れていたリアリズムを形にするイイ機会だった。
 原作があった。が、その小説は『さらば』の時と同様、映画にするには大きく膨らませなくてはならないと言う。
 翌日、渋谷火急インのティールームで佐藤氏から原作を受け取った。
 スケジュールは夏撮影、今年度の最終番組であるという。時間はあるようでない。その頃の僕はフジの『この愛に生きて』を夏まで書くタイムテーブルに突入していた。この仕事を受けるとしたら、脚本作りは連ドラが一段落つく6月まで侍ってもらわなくてはならないことを説明した。
 そして僕は質問する。
 「東映の起死回生の勝負作である企業モノを、何故僕に書かせるのですか。何故『社葬』の脚本家ではないのですか?」
 佐藤氏は一瞬、虚を突かれたようだった。
 野沢のイキのよさに期待した。そんな返事だったように思う。おそらくこの企画が社内で通るまで「誰にホンを書かせる、やはりあのベテランではないか、野沢? あんな若造に勤まるのか」といった議論があったに違いないが、後に企画者のクレジットに入る筆頭ブロデューサーも、僕の作品をどれだけ見ているか知らないけれど僕で納得し、社内のコンセンサスもすでに取れているようだった。
 2月3目、原作を読んだ結果、東映に「やります」と正式に回答する。
 それからホン作りに入るまでカタルシスのない原作の流れにどんな映画的スケールを与えるか、主演予定の柴田恭平が演ずるのは原作においては脇役の人物だが、それをいかに主役的立場に引き上げるか・・・・・・筆頭プロデューサーと監督、佐藤プロデューサー、若手の野村プロデューサー、との5人のチームで知恵を絞ることになる。
 そして取材と、山と積まれた資料の読破。
 構成段階までに、いくつかの問題点を処理できた。クライマックスには火事を設定する僕のアイディアで筆頭プロデューサーも「やっと見えた」と言った。
 炎上シーンのスペクタクルで映画的スケールになる、という意味ではない。不動産会社のサラリーマンが追い詰められ、やがて保身のために、自分の売り物にまで火をつけてしまうという自殺も同然の行為。そこに意味があった。
 フジの連ドラ最終回のホンを上げて、本格的に『集団左遷』に取り掛かる。5月30日に書き始め、6月4日に一応脱稿、読み直し書き込みを入れ、6月10日に東映に渡す。
 次回の打ち合わせは15日。毎度のことながら、こういう5日間が辛い。どんな反応が返ってくるのかと思うと、ドラマの打ち上げも心から楽しめない。
 さて15日を迎える。ここから1ヶ月に及ぶ筆頭ブロデューサーとの戦争が始まった。まさかあんな神経戦と消耗戦に突入するとは、常に悲観的に物事を考える僕でも、6月15日、大泉に向かう西武線の中では夢にも思わなかった。
 筆頭プロデューサーは第一稿に満足しなかった。そもそも彼はこの映画の企画者として重圧を抱えていた。東映の起死回生作であり、東映のトップや営業サイド、宣伝サイド、多くの意見者を抱え、誰にも文句を言わせない脚本を最初に提示しなければ企画自体がとんでもないことに陥ると危機感を持っていた。
 それほどこの企画は、東映内部で議論白熱する素材だった。リストラの波に喘ぐ企業。それはすなわち現在の東映の姿であり、もっと言えば、日本映画界そのものであった。『集団左遷』について誰もが何か意見を言いたくてしょうがない。自分の社内的立場を映画に反映させてほしいとも願う。
 去る4月の時点で、この仕事はおそらく多くのストレスを抱え、難産となるに違いないという予備知識を僕に与えた筆頭プロデューサー自身も、撮影所経営陣の一人として組合との攻防戦に身を置く日々で、映画の登場人物に対する思い入れは激しかった。
 東映本社のそこかしこで待ち構えている意見者たちに何も言わせないためには、岡田会長を最初の印刷台本で納得させるしか突破口はない。岡田会長が頷けば水戸黄門の印籠となる。そこに辿り着くまでが脚本作り・前半戦の関門だった。
 延々続いた筆頭プロデューサーと僕との争点は、人間のリアリズムとエンディングの形、の2点に要約される。
 野沢の野沢らしさの所以とも言える人物の劇的スタイルを、筆頭ブロデューサーは面白いと感じなかった。例えばこんなシーンがある。
 左遷集団の一人に、5時になると残業を放って帰宅する男がいる。彼には実は末期癌の妻がいた。妻は昔の恋人である商社の総務部長に頭を下げ、夫の仕事に協力した。『5時まで男』の亭主は、後に仕事を妨害した仇役の副社長に、この仕事は女房と二人三脚で取ってきたのだと滔々と語り、総務部長はかつてのだの恋人だった、ということまで皆の前でさらけ出す。
 筆頭ブロデューサーはこのシーンを削ろうとした。僕は抵抗した。物語の脇役であろうと、こだわりたかった人物の劇的スタイルだった。僕は銀座収急ホテルのラウンジで「どうしてこのシーンを面白いと感じられないのか!」と怒鳴ったりした。夜中の2時。疲労もピークにきていて神経はささくれ立っていた。
 このシーンは生きた。完成映画にもあった。いいシーンに仕上がっていたと思う。
 僕は他の論点でも、もっと怒鳴るべきだったのかもしれない。暴力沙汰にもなりかねないテンションで、数々のシーンを通すべきだったかもしれない。
 筆頭プロデューサーと対立する時、彼には決まり文句かある。「野沢さんは就職したこともないし、サラリーマン世界を身をもって実感していない。私達は組織の中で様々な軋轢を体験している」 だから僕が書いてくるサラリーマンの台詞回し1つ1つがリアルではないと感じた。直してほしいと注文した。
 僕はそういう点では意地を張らなかった。サラリーマン世界の苦しみを味わっている筆頭プロデューサーからなるべく多くを吸収し、台詞を練り上げてゆくだけの謙虚さは持ち合わせていた。
 それは僕の、作家としての『育ち』からくる性質だった。23歳の時に30代の男女の情念のドラマでデビューした。ディレクターの人間観、女性観を吸い取り紙のように吸収しなければ書けないドラマだった。いいドラマを書くにはどれだけ周りの人間から『人生』を盗むかにかかっている。
 監督が進むべき進路を与えてくれて、監督の人間観察を理解することによって、薄ぼんやりとしていたポリシーがはじめて形になってくる。これが僕にとっては重要な物作りの方法論だった。
 だから筆頭プロデューサーの意見にはギリギリまて譲歩してきた。1つ1つの譲歩に対し、1つ1つ丹念に検討して納得してきた。
 しかし今回の仕事に限っては、そうした僕の協調性ある創作姿勢が徹底的に災いしたといえる。
「私はサラリーマン社会の苦しみを身を持って感じている」と言って僕を説得してきた筆頭プロデューサーだったが、実は、この映画をどういうルック(外観)で観客に提示するかという方針が定まっていなかった。「この人の何かを吸収しよう」とペンを侍って待ち構えている僕に対して、彼はいつも首をひねり、自信がなさそうだった。僕はじれ、とにかく何か書いて(こういうところが僕の悪い癖なのだが)彼に示す。読んだ彼は「私の言いたいことはこういう事ではない」と却下する。それが度重なる。ルョクが定まっていない上に「違う、違う」と言い続ける筆頭ブロデューサーは、僕の目には『ないものねだり』をしているようにしか見えなかった。
 しかも、この人の「違う」という言い方が問題だった。
 6月17目、東銀座の熱海荘での打ち合わせ。彼は席につくなり、僕にコピー台本を渡した。もちろん僕の原稿だが、そこには書き込みがなされ、台詞やト書きを線で消し、新たな手描き原稿が大量に挟まっている。
 「まずこれを読んではしい。この通り直して欲しいという意味ではない。口で説明するより読んでもらう方が早いと思ったのだ」と説明した。
 判ってもらえるだろうか、こういう時の気分を。
 別の誰かが書いた原稿を渡される脚本家の気分を。
 この世界では10年選手の若造であるが、様々な仕事で様々なイヤな場面に遭遇してきた。無能な人間たちに与えられた傷は数知れない。だから、そういった原稿を見せられる局面ではドス黒い強迫観念にかられてしまう。「俺はきっと下ろされるんだ。後釜のライターはすでに決まっているのだ」
 冷静に考えれば、そんな馬鹿なことがあるワケない。事実、「誰が書いたものですか、それは」と聞くと、筆頭プロデューサーの意見を受けて、熱心な助監督が書いたものだと言う。その差し込み原稿がよく出来ているとは、筆頭ブロデューサーは必ずしも思っていないが、会議の叩き台として用意したと言う。
 しかしだ。
 文章を書いて生きている人間に対して文章を見せるなら、大いなる覚悟を持ってほしいのだ。作家の文章に綿を引く以上、「この通り直してほしいという意味ではない」などとエクスキューズをして欲しくない。
 僕はそう詰め奇った。
 彼はいくらか申し訳ないと思ったようだが、じかに文章を書き込んで打ち合わせするやり方は、結局最後まで続いた。
 彼にも言い分はあるだろう。何より時間に追われていた。印刷にゴーサインを出せる脚本が出来ていない。とにかく効率的に事を進めたかった。しかし事情は理解できても、こういう原稿のキャチボールは生理的に耐えられなかった。
 僕はこの日以来、感情的にならざるをえなかった。
 そして本誌10月号で書いたことに繋がる。脚本とはイイ文章など必要としない。現場に入ればどんな風にでも直せる。それが分かっていながら、脚本作業で文章にこだわることは、単なるエネルギーの浪費ではないのか。
 生活さえ許せば、もう脚本なんて書きたくない。
 と、打ちのめされる梅雨の日々だった。
 今日も送られてくる訂正原稿。僕は「もう限界だ、もう降りよう」と思う。
 打ち合わせ場に行き、その意志を伝えようとするのだが、ふと気付いてしまう。
 筆頭プロデューサーは必死だった。心死にこの映画を成功に導きたいと思っている。その熱烈さには正直、心を打たれてしまった。よし、あと一度だけ。あと一度だけ頑張ってみよう。殊勝にもそんな気分になってしまう自分に嫌気が差しながら、午前3時に帰宅する。
 印刷台本に対する岡出会長の評価は、こちらが予想していたほど悪いものではなかった。
 ところが次の難問は、津川雅彦氏だった。津川氏は、この仇役のキャラクターでは、出たくないと言ってきた。津川氏なくしてはこの企画は成立しないと考える東映は、彼が納得するホンをどうしても作らなければならなかった。
 最大の問題はラスト。この仇役の失脚の仕方である。それは観客に与えるカタルシスと切っても切り離せない問題である。サラリーマンに勇気を与える映画としては勧善徴開く悪だろうが、悪役は鮮やかに切り捨てたい。ところが単に切り捨てるだけで津川氏は納得しない。
 この問題は、完成した映画を見ると、意外にも上質な形で解決している。その点については後述するが、決定稿作業の段階では解決策が見い出せず、筆頭プロデューサーは僕の書いてくるシーンや、彼自身が書いたシーンに「イメージはこれに近いが、こうではない……」と首をかしげる毎日だった。彼の苦悩に僕も飲み込まれ、酸欠状態だった。
 敵役は破滅を前にして、リストラについての大演説をブツ。この激しい芝居場さえあれば映画は乗り切れる、というのが僕の変わらない主張だった。しかし筆頭プロデューサーは「何か足りない」と感じる。柴田恭平が津川雅彦を殴るシーンで終わりたいと言い出す。
 僕は溜め息をつきながら、その暴力行為がいかにも取ってつけたような終わり方にならないように書いてみる。
 「ウム・・・・こういうことかな。ま、今の段階はこの形でいいか」 
と、筆頭プロデューサーは暫定的なOKサインを下す。
 僕は早くこの什事から開放してほしかった。怒りを通り越して疲弊しきって、堪え性もなくなっ
ていた。
7月17日、最終原稿を渡した。「終わった!」と仕事場で狂喜した。
愚かだった。何も終わっちやいなかったのだ。終わり方を完全に誤っていた。


つづく


2009-10-20 21:26  nice!(2)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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コメント 2

野沢

漢さん
nice! ありがとうございます。
by 野沢 (2009-10-21 13:46) 

gyaro

③へコメントさせていただきます^^
by gyaro (2009-11-09 04:24) 

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