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映画館は、次第にインナートリップヘ [「映画館に、日本映画があった頃」]

映画館は、次第にインナートリップヘ

 それは15年前、日大芸術学部映画学科の入試を受け、合格発表を数日後に控えた3月だったと記憶する。
 名古屋・東別院の貸しホールヘ、石井聰亙監督の自主映画上映会に出掛けた。
 『高校大パニック』と「突撃!博多愚連隊』の2本立てと石井監督を招いてのフリートーキングだった。
 当時、映画監督を志す若者にとっては、石井聰亙といえば燦然と輝くスタアだった。前年の夏、石井監督は日活で自作の『高校大パニック』を35ミリでリメイクした。それが御本人にとっては不本意な共同監督作品だったとしても、学園を駆け技けるライフル少年の熱気と疾走感は僕を虜にし、大学生ながら商業映画に進出した石井監督の快挙は偉大なサクセス・ストーリーだった。
 1週間後、大学に合格していたら、僕はあなたの後輩になるんです。名古屋にやって来た監督にそう呼び掛けたい気持をグッと腹におさめ、僕は8ミリの二本立てを見ていた。
 時は自主映画ブーム最盛期。日芸に入れば映画監督になれると僕らは本気で思っていた。
 そして合格した。全国から同じ映画監督志望の連中が江古田に集まってきた。
 映画学科4階の編集フロアを覗けば、学食でどんぶり飯と卵だけを買ってきて、黄色い飯をかき込みながら16ミリフィルムをカッティングしている先輩たちがいた。
 翌年、石井監督は大学の卒業制作でもある『狂い咲きサンダーロード』で商業映画に返り咲き、何と「キネマ旬報」第9位に入賞した。石井監督に追いつけ追い越せが、20歳の僕らにとって合言葉だったように思う。
 僕も20歳の冬、1時間50分の8ミリ映画を作った。「ぴあ」のコンクールに出したが一次選考も通らなかった。卒業制作では16ミリ・カラーの長編ホラー映画を撮った。学内では賞に輝くことはできたが、映画監督にはどうやらなれそうになかった。才能や運といったこと以前に、僕には集団を束ねてゆくカリスマ性に欠けていた。そういう自分の性格的欠陥に嫌気が差しながら、脚本家になろうと日々ペラを埋める貧しくて暗い青年だった。
 で、大学を卒業した2年後にテレビドラマと映画で同時デビューできた。こんな性格だけども脚本家には向いていたようだ。運も味方した。テレビでは鶴橋康夫氏、映画では奥山和由氏、このお2人と出会ってなかったら、今の僕は存在しない。
 一方、同じ84年に『逆噴射家族』を撮った石井監督であったが、以後10年、劇場用新作が撮れなかった。
 10年、石井監督にはどんな苦悩や焦りや絶望があったのだろうか。
 そして待望の新作『エンジェル・ダスト』である。
 9月29日、新居引っ越しと大型台風襲来が翌日重なる気配で身辺はワサワサと落ち着かなかったが、渋谷スペイン坂を上り、シネマライズをくぐった。

 山の手線夕方6時のラッシュアワーに、若い女ばかりを狙った連続殺人事件が起きる。そして登場するのは異常犯罪性格分析官のヒロインである。
 事件の裏にあるのは新興宗教のマインド・コントロールと、信者の家族が娘を取り戻すために依頼した逆洗脳士の存在だった。ヒロインと逆洗脳士はかつて恋人同士。両者の心理戦が開始される。
 前半1時間は滅法面白い。宵闇の中を、地をのたうつ毒蛇のように山の手線が走り、都市空間の盲点を突くような殺人が起こる。
 被害者の死体と向き合って、その最期の瞬間に感じた痛みと同化しようとするヒロイン。
 刑事や事件関係者に、無名ながら、いかにも『いそう』な俳優を配し、物語は極めて冷たい質感の映像を次々に繰り出してくる。都市の切り取り方は見事である。音の1つ1つにも配慮が行き届いている。電車が擦れ違う音だけでも怖いのだ。
 低予算の映画だろう。
 だけど『豊か』なのだ。厳しい制約の中で細心の工夫によって未来を切り開いてきた日本人の美徳が、この映画のスタッフにも息づいているかのようだ。
 映画が傑作になり損ねたのは、ひとえにヒロインのキャラクター設定による。
 監督の意図は知らないが、僕がこの映画を見始めて1時間たった時の期待は、マインド・コントロールと逆洗脳のサイコ・バトルという、現代を表現するテーマとしてはこれほど素晴らしいものはないと思わせてくれた着眼点の、終盤においての結実だった。
 しかしテーマは未消化のまま終わる。この映画の案内役であるヒロインが、僕たち観客を置いてけぼりにして、勝手に先へ先へと歩いていってしまう。
 彼女は実は重く暗いものを抱えていた。夫は両性具有者だった。そうと知ってて結婚したし、精神的セックスで絆を保ってきた。
 が、こうしてヒロインのキャラクターが判明した時、観客の僕は「彼女にはもう付いていけそうにない」と感じた。
 精神世界の暗渠に導いてくれる案内人は、僕らと同様に、その世界の深みに心底恐れてほしかった。
 トップシーンて夫と富士山の風穴を探検するヒロインの姿がある。地底の暗闇で夫とはぐれ、ヒロインは恐怖にかられる。最後までそういう人物でいて欲しかった。勝手にインナートリップしてもらっては困る。
 つまり、特殊な世界で苦しんでいたのは、所詮、特殊な人間だったという訳だ。
 しかも映像はきわめて無機質でポップ。マインド・コントロールと逆洗脳、この瞠目すべきテーマをとことん掘り下げ、剥き出しにしてはくれない。
 逆洗脳士がマインド・コントロールされた1人の女性を棙じ伏せてゆくプロセスをかなり丹念に積み重ねているが、ちっとも怖くなく、ひたすら退屈だった。あのシーンでは、「これ、まさかドキュメンタリーではないか」というものを見せて欲しかった。ビデオ映像を拡大してザラザラさせれば本物に見えるということではない。肝心なところで、作り手は物語のリアリティと格闘していない。
 こんな感想を聞いて、石井監督は「お前らバカか」と思うだろうか。
 この精神世界の遊園地で遊べない僕らを「ならシネマライズなんか来るな」と突き放すだろうか。
 ヒロインの夫が死んだ。演ずるは今最も旬な俳優の豊川悦司である。検死官が股の間を覗きこみ「アレ?」となる。両方の性器を見て、彼が両性具有者で、しかも男性側を去勢していたと分かる。
 僕らは驚く。もっと意味を知りたい。しかし作り手は知らせてくれない。
 批評家は言う。『その唐突さと与えられる情報量の少なさとが彼の異様さを更に強めている……』
こんな風に好意的に感じてくれる観客が、渋谷スベイン坂には沢山いるのだろうか。
 石井監督が10年振りに新作を撮った。ファンが暖かく迎えようとする気持ちは分かる。僕だってできれば拍手したい。だけど批評家の行き過ぎた善意は創作者を殺しはしないか?
 たとえそれが『ヨイショ』用のパンフレットの文章だったとしても。
 同じ創作者の目から見ると、去勢した両性具有者というモチーフは、この映画においては単なる『散らかり』としか見えない。豊川悦司がヒロインのために甲斐甲斐しく夕食を作って待っているシーンが、『妻になろうとした両性具有者』を描くための伏線だったとしても。
 このテーマで多くの観客の気持ちを摑んで欲しかった。
 このテーマで賞も沢山取って欲しかった。
 発見した鉱脈に溺れ、作り手が勝子にインナートリップしてはいけなかった。作り手は努めて冷静に、観官に対して謙虚に、それでいて虎の子のテーマに向かって闘志を燃やさなくてはいけなかった。
 今回、結実はしなかった。だけど可能性は確かに感じた。この豊かな国にも世界に通用するテーマはある。
 僕もそろそろ元気にならなくては。

 さて、次回の連載最終回では、自作の『集団左遷』について書こうと思っている。
 僕がこの仕事について総括する前に、今月号の脚本掲載に寄せてもらう形で、共にホン作りで苦しんだ東映のプロデューサー諸氏にコメントをお願いしたのだが、誰一として書いてくれなかった。
 ならば僕が全て書く。最後のエッセイだ。徹底的に書いてやる。


野沢尚著書より


2009-10-13 14:52  nice!(2)  コメント(3)  トラックバック(0) 
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コメント 3

gyaro

おはようございます^^
実は私、小学校1年の時に江古田にある教会に通っていました。
たしか野沢尚さんとは生まれが15ほど違うので、
もしかしたら、そんな時代にすれ違ってたりしないよなぁ、、
でも日曜学校だから大学は休みだな、、、なんて思いながら
記事を読ませていただきました。
石井監督の『エンジェル・ダスト』という作品は知りませんでしたが、
難しいテーマを扱った作品だったようですね。
必ずしも善意でヨイショの批評が観客を呼べるとも限らない、でも、野沢尚さんの批評を拝見していたら観るポイントもわかって観たいと思えてきました。
『集団左遷』ビデオに撮ってあるのでまた観ておきます♪


by gyaro (2009-10-14 10:37) 

野沢

gyaroさん
ダーツマニアさん
nice!ありがとうございます。

by 野沢 (2009-10-21 13:36) 

野沢

gyaroさん
そうなんですか。
映画学科は土曜も日曜もなく学校へ行っていたと思いますよ。
江古田のまちで、すれ違ったりしていたかも知れないですね~

by 野沢 (2009-10-21 13:40) 

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