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映画館に足が向かず、夏バテの頭で考えること [「映画館に、日本映画があった頃」]

映画館に足が向かず、夏バテの頭で考えること

 僕は周囲に対して、滅多に仕事についての弱音は吐かない人間なのだが。
 先月末に終わったある映画の仕事中、つい一言、洩らしてしまった。
「もう脚本の仕事をやめたい」
 半分は愚痴だったが、半分は本気だった。家人はその言葉を間いて以来一週間、「ねえ、あれ、本気じゃないよね?」と子供が寝静まる夜ともなると気にした。
 僕のドラマが主婦仲間の中でどれだけ話題になっているのか。僕が子守をしている間、少しお酒落して1人で見に行った自由が丘武蔵野館の「ラストソング」では、観官の若者がどんな感動ぶりだったのか、彼女は懸命に説明してくれる。
 それでも亭主は思い直してくれないようなのてやがて子供が寝静まっても話題にしなくなる。
ずっと好きなことをしてきた人間に周りが何を言っても無駄、と諦めたようだ。
  かわいそうなことをしてしまった。言うべきではなかった。

 その映画の仕事は思い出したくない仕事の部類には入るものの、最悪だった訳ではない。最悪な映画の仕事は僕の12本のキャリアの中で、他にある。

 今回の苦労は何だったのか。筆頭プロデューサーが抱えている人間のリアリズムと、僕が目指す劇的スタイルが噛み合わなかったことに尽きる。
 この仕事の総括については、11月の公開後に書こうと思っているけども、何もこの映画の仕事が辛くて脚本の仕事に絶望した訳ではない。以前から感じていた仕事への限界と疑問は、その度に何とか自分で誤魔化していたのだけれど、今回ばかりは誤魔化しきれず、直面しなければならなくなったという訳だ。
 僕が脚本という仕事に感じている醍醐昧とは、美しく巧みな物語を美しく巧みな文章に書き残すことだった。
 そこに実は問題点が潜んでいた。シナリオ作家志望の人はなかなかピンとこないかもしれないけど、脚本とは映像があってこそ完結し、映像化されない脚本は(作家志望者の習作は別として)単なる紙屑に過ぎない。様々な制約の元で映画化となり、プロデューサーや監督の信念や人間性も直しの会議で注入され、役者の台詞回しによって言葉に命が与えられ、編集段階で脚本執筆時には思いもしなかったモンタージュがされ、ト書きや台詞といった文字以上に効果的な音楽が加えられる。
こうして脚本という文字世界はようやく完結する。
 つまり脚本とは、自分以外の誰かの改変作業によって常にん左右されてしまう文筆作品なのである。
 こういう局面があった。
 撮影も間近に追っている決定稿作業である。この段階に来ると、監督やプロデューサーの生理感覚によって、「この言い回しを直せないか」という一言一句の戦いとなる。こちらにも台詞の美学があるから一言一句に抵抗する。戦いに疲れてくるとお互いに妥協点を見出そうとするのだが、そこで僕の頭がハタと我に返ったように、急に醒めてしまった。
 俺は一体何をこだわっているのだろう。ここで一言一句にこだわっても、彼らは現場に入れば成り行き上どうにでも直せるではないか。役者は役者の生理で喋るし、現場の制約を理由に、僕の美しく巧みな文章に線を引くことに何の痛痒も感じないだろう。
 それが分かつていながらこの決定稿作業で文章にこだわることは、単なるエネルギーの浪費ではないのか。
 これはスタッフヘの信用うんぬんとは別次元のことである。僕のこだわった一言一句を、このスタッフは必ず実現してくれるだろうと信頼できたとしても、現場では常に「何か」が起こるのである。

 脚本とは集団作業である。
 一言一句現場では直させないと仰る大作家も、どうあがこうが脚本家でいる限り、集団作業の中に位置づけられる。
 そこで感じる面白さとは、文章という平面世界が、優秀なスタッフによって映像という立体世界へ飛翔してゆく喜びである。
 キャリア10年、テレビと映画を合わせて数十本の脚本を書いてきて、確かにそういう歓喜が僕にも数多くあった。
 ところが、美しく朽みな文を書きたいと思う人間にとっては、仕事の果てにこの喜びがあったにしても、自分をどうしても誤魔化しきれないフツフツたる不満の火種が底に沈むことになる。
 極端に言えば、何より文章を書くことが大好きな人間は脚本家なんかになるべきではないのだ。

 僕の文章は多くの人々を触発させた。それは確かだと思う。
 特に新しい環境で仕事をする場合、スタッフに対して挑みかかるような文章がト書きに横溢する。
 フジテレビで初の連続ドラマをやることになった時、その第1回の脚本は信じられないくらい文章が埋まっていた。だが、その文章に苦労したディレクターも、僕のホンでは二度とやりたくないと愚痴ったりはしなかったように思う。僕は彼らを触発し、彼らは触発されて映像作りに闘志を燃やす。いい仕事だったと思える作品では、両者はそういう関係だった。
 ゴチャゴチャ言わないで、これだけで満足すべきなのだ、僕は。

 で、今僕は小説を書く。
 警察小説である。
 鮫島や合田以上のキャラクターを造形できるかどうか、どれどけ現代を撃てるかどうか、文章と格闘している。
 僕はこれを書きながら、大袈裟ではなく、曲りなりにも文章を書けるという才能を天から与えられたことに感謝した。これが唯一の取り柄なのだと思った。
 楽しい。興奮する。この文章は誰にも傷つけられない。この文章は読む人に無限の映像を与えられるのかもしれない。
 脚本のト書きでは必要なかった表現が小説世界では必要とされる。人間の内面描写に深く深く入ってゆくことを要求される。自分の語彙範囲の挟さを痛感させられ、勉強しなければと思う。3分の2を書いたところで小休止、高村薫の『照柿』を読んだら、途端に先が書けなくなってしまった。
 今書いている小説がどういう形で世に送り出されるのか、まだ決まっていない。
 こういう創作活動も、ちゃんと経済活動として成立するのなら……映画やテレビは僕の趣味のフィールドになって、映像にふさわしい素材があれば書けばいいし、修復困難な対立があればさっさと脚本を引き上げたっていいのかもしれない。
 その時は、このエッセイのコーナーも潔くやめよう。趣味で映画を書く者が、仕事で映画を書く人を批判してはならないと思うからだ。

 さて、今日も文章で踊る。
 午後5時には踊り疲れ、ソファベッドにぶっ倒れる。
 万物をくっきりと切り取る西日が眩しくて目を閉じると、睡魔が襲う。遅めの午睡から覚めると、西日は優しげな暖色に変っていた。
 自分はどこに辿り着くのかと一抹の不安を覚え、うっすら寒くなる時間である。


野沢尚著書より


2009-09-29 08:18  nice!(3)  コメント(3)  トラックバック(0) 
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コメント 3

gyaro

食い入るように読んでしまいました。
文中、
>僕が脚本という仕事に感じている醍醐昧とは、
>美しく巧みな物語を美しく巧みな文章に書き残すことだった。
これぞ、野沢尚さんなんだと思いました。
今回の記事を読んでいて、
なぜか「川、いつか海へ」の制作発表の時の野沢さんを思い出しました^^
by gyaro (2009-10-10 12:57) 

野沢

漢さん
タケルさん
gyaroさん
nice! ありがとうございます。


by 野沢 (2009-10-11 21:11) 

野沢

gyaroさん
「川、いつか海へ」の制作発表までご覧いただいてるのですね・・・すごい~^^
by 野沢 (2009-10-11 21:13) 

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