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映画館はまだ遠い・・・③ [「映画館に、日本映画があった頃」]

6月22日のつづき
(※「映画館はまだ遠い」の章は長いので分割掲載とさせていただきます)

映画館はまだ遠い・・・③

 奥山バージョンと黛バージョンの違いは、作家という人種の捉え方だと思う。
 江戸川乱歩という人物を、奥山氏はかなり激烈に捉えている。脳細胞の爆死まで映像で描こうとしている点からも明らかで『非現実の世界を持つことでかろうじて現実世界で生きられる人間』というのが作家の定義だとしたら、後半は精神異常者に近い。
 作家の内面というのはこんなにエキセントリックなんだろうか……と、同じ作家として僕はやや首をかしげる。特殊な人間の特殊な精神構造を、奥山氏はこれでもかこれでもかという映像の連発で、極めて破壊的に描いた。
 そのイメージ先行の造りと比較すると、黛バージョンにはロジックが存在する。
 少年時代の自慰行為を天井の節穴から、少女時代のヒロインに覗かれた・・・・・という原体験を乱歩に与えている。
 黛バージョンは難解である、という批評家の指摘を事前に読んでいたが、終盤の展開を除けば、奥山バージョンの方が、観客に想像力を要求する分だけ難解と言ってもいい。
 例えば、時折ヒロインの近くに姿を見せる少女。黛バージョンでは、乱歩をかつて上から覗いたヒロイン静子の少女時代の姿なのだか、奥山バージョンでは、乱歩の心象風景としか説明されない。
 しかし、少なくとも奥山バージョンの前半は、センスのよい語り口が説明不足をカバーしている。
 冒頭『お勢登場』をアニメで描くくだりから(この映像世界は素晴らしい)、佐野史郎に小説を検閲されるくだり、そして横浜ニユーグランドでのパーティーシーンまで小気味よく乱歩を歩かせている。口下手なくせに自己顕示欲が溢れた性格設定も、横溝とのコンビネーションでよく分かる。
 この横溝の描き方は、僕が書くいた頃のキャラクターよりも…異様である。何故横溝を薬物中毒の設定にしたのか、首をひねった。
 乱歩が幻想世界に耽溺するのと同様に、病的なキャうククーを横溝に与えることはこの物語全体からすると得策ではないのでは、と奥山バージョンのラストを見て思った。それについては後述する。
 この物語は一種の恋愛劇である。
 現実世界で女性を抱けない男。女の魅力を自分の作品世界で開花させることによって悦に入る男。それが乱歩である。
 そんな男を愛してしまった女はどうすればいいのか。男の仕事部屋の外で寂しく佇むしかない。
 恋愛劇としての軸をそう決めた時、このドラマは僕にとって人事ではなかった。
 女の不幸の影を見ると、その不幸に涙しながら、作家という人種はそれを自分の作品に容赦なく投影する。現実世界の不幸をとことんまで利用してしまう。
 作家が最も愛しているのは自分がっくり出す虚構である。虚構の女が恋人。このエゴイスティックな自己愛こそが、現実世界にいる女との間をどうしようもなく隔ててしまう。
 作家が主人公を勤めるこの恋愛劇を、乱歩役の竹中直人は懸命に演じていた。

 で、問題のラストである。
 黛バージョンでは、静子を殺人快楽症の女と定義する。断崖で明智と抱擁し、その一瞬に突き落とそうとするシーンもスリリングに描かれている。語り口としては申し分がない。
 明智を劇中劇のカラーに染めるため意識的に人形のように造形した演出は、キャラクターに体温が感じられない分だけ、静子を狂おしく思う明智の恋愛感情を描く時にはマイナスしている。が、侯爵亡き後の展開は、明智と静子はいかなる対決を見せるのかと期待させる。
 事件の真相を告白するから長持ちに入って欲しい、と静子が言う。彼女が前夫を閉じ込めて殺した長持ちである。
 明智はあえてそこに入る。
 乱歩が駆けつける。現実と虚構の壁を突き抜けてやってくる。
 そこで、ほとんど唐突に静子は毒をあおる。
 ここからが黛バージョンの理解できない点である。
 乱歩の目の前に原生林が現れる。乱歩の原体験のような夢世界である。そこで静子と再会する。乱歩は「もう夢はいらない」と言い、静子と抱擁する。ところが静子の姿はかき消え、乱歩は原生林の真っ只中で茫然と佇み……エンドクレジットとなる。
 殺人快楽症のヒロインならば、快楽の極みて恍惚の真っ只中で死ぬべきではないのか。
 乱歩は現実から自分の虚構世界に足を詰み入れた。静子と再会した今の場所が、はかない夢の世界であると知っているはずである。夢はいらないと言うことは、静子との恋愛を、自分の創作世界を、作家としての自分を、放棄することではないのか。
 静子は何処へ消え去ったのか。茫然と佇む乱歩の姿は『作家の死』を意味しているのか。
 登場人物を奔放に動かしたのはいいが、結局収拾がつかなくなって宙に放り出したような結末になっている。
 一方、奥山バージョンのエンディングはどうか。
 乱歩は「横溝君、さようなら」と呟き現実社会と決別をする。
 乱歩は現実逃避の道を選ぶ。しがらみを全て絶って、虚構の女に溺れてゆく。奥山氏が乱歩企画に魅力を感じた時から、この結末が頭にあったに違いない。
 しかし、乱歩が別れを告げる相手が横溝だということが、結末の意味合いを分かりにくくしていないだろうか。
 横溝は、作家と編集者という関係以上にに、乱歩を虚構世界へと追い立てる人間である。横溝は後に乱歩と並ぶ大推理作家になる訳だし、麻薬も常習しているし、言わば、乱歩と手を繋いで『あっち側』へ行ける同じ人種である。
 横溝としても、乱歩が『あっち側』で静子に溺れるのは願ったりかなったりだし、現実のしがらみを代表する人物とは言いがたい。
 乱歩が別れを告げる相手は、やはり自分の妻と子供ではないか。
 脚本作りの最初の段階で、乱歩の妻子を出すべきかどうかは検討課題だった。
 バッサリ捨てる道を取った訳だけど、今こうして奥山バージョンを見ると、やはり乱歩のバックグラウンドとして妻子の存在は必だったように思われる。
 実際の乱歩の妻は、空の米櫃を見せ、「どうするんですか、今月の暮らしは」と、極めて現実的な理由で乱歩を創作活動に追い詰める人間だったという。
 室井滋あたりが面白くやってくれそうな気がするのだ。

 では、僕はどういうエンディングを書いたのか。
 自分の虚構世界て乱歩は静子と再会する。
 しかし乱歩はもう作家として燃焼し尽くしている。静子は「もう安らいで下さい」と言い、未来へ旅つ。彼女の未来とは、遠くに蜃気楼のように見える街、高層ビルが林立する現代の東京である。つまり乱歩は死んでも、静子は、その作品世界は、永遠に生き続けるということだ。
 「君はいつの時代でも生きることができるんだね」と乱歩は羨望のように言う。
 静子は去る。乱歩は「気をつけて行くんだよ」と見送る。乱歩の背後に炎が追ってくる。それは何の炎なのか。乱歩は「あと一行書くまで待ってくれ」と迫り来る炎に言う。
 それは火葬の炎だった。白木の密室の内部には、今、乱歩が書いた最後の一行が記されている。
 『しずこ』と読める。
 長侍ちに閉じ込められた静子の前夫が、愛の極みでそう記したように。
 文字は鬼火に包まれる。乱歩の柩は燃えてゆく……
 江戸川乱歩は、僕にとって読書体験の原点だ。
 ポプラ社の少年探偵団シリーズを10歳で全巻読み終え、乱歩の初期の作品に移り、海外のミステリーヘと手が伸びた。
 乱歩の精神構造を描くことは僕白身を描くことでもあった。
 『RAMPO』に費やした原稿は、いつか形を変えて再生させたい。10年後でも20年後でもいい、乱歩にもう一度肉薄したい。
 奥山氏も黛氏も、傷だらけになりながらも映画館に辿り首いた。
 僕だけが辿り着いていない。
 映画館はまだ遠い。

「映画館はまだ遠い」・・・完
(野沢尚著著より)


2009-06-29 02:00  nice!(3)  コメント(4)  トラックバック(0) 
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コメント 4

gyaro

傷だらけになりながら、、、
どちらの作品もまだ拝見していなくてお恥ずかしいです。
記事を拝見して、すぐにでも観たいと感じました!!
by gyaro (2009-06-29 15:06) 

野沢

gyaro さん
nice!とコメントありがとうございます。
この件は、当時我が家でも何度か話題にのぼったのでよく覚えています。
共同作業で何かを生み出すということは本当に大変なんだと思いました。
私たち家族に泣き言をいったことはありませんが、辛いことが多かったのだと今更ながら思いますーー;

by 野沢 (2009-07-07 17:01) 

野沢

mochiさん
nice!ありがとうございます。
by 野沢 (2009-07-07 17:02) 

野沢

漢さん
nice!ありがとうございます。
by 野沢 (2009-07-07 17:02) 

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