映画館に休日のサラリーマン、きたる⑤ [「映画館に、日本映画があった頃」]
>>2/1の続き
映画館に休日のサラリーマン、きたる⑤
一般観客の中には、こういう感想を侍つ方もいるだろう。島耕作を巡る世界は、派閥抗争とオフィスラブばかりで、仕事をしているサラリーマン像がほとんど描かれていない。俺たちはあんなサラリーマン生活を送っていない、まるで現実離れしている……と。
僕はそういう観客に問いたい。1600円も払って映画館に足を運んで、そこでもやっぱり現実の自分たちを見たいんだろうか。
原作の島耕作の魅力とは、ある時はスーパーヒーローになり得たり、ある時は、保身や家族問題で悩んだり、この両極を行ったり来たりする人間像の振幅である。原作のファンの間でも、島耕作は現実離れしている、という感想を持つ者は多いが、劇画という世界の強みか、それらの感想は否定的に言われることはない。通勤電車の中で週刊モーニング誌を読んでいるサラリーマンは「こんな奴いねえよなあ」と言いながら、けっこう楽しんでいるのだ。
確かに、島耕作が初芝電産宣伝課という部署で、どんな熱意を持って仕事をしているのか、その仕事にどういう生きがいを感じているのか、という点について充分に描かれていない。
「私はサラリーマンという仕事が好きです」と島耕作に言わせるのなら、彼はサラリーマン生活のどの部分をエンジョイしているのか、はっきり描くべきだったかもしれない。島耕作というサラリーマンが、宣伝という天職の中でどんなイイ顔をするのか、一発でわかるようなシーンを。
それを書かなかったのは、書かなければならないエピソードに足を捕らわれてしまったからかもしれないが、彼が所属する電機メーカーの宣伝課という場所が、一般サラリーマン世界と比べて特殊に思えたからである。宣伝の仕事の醍醐味を描けば描くほど、その世界の特殊性が際立ってしまう、と思えたのだ。
観客には、自分たちのサラリーマン生活と島耕作の環境との、最大公約数を感じ取って欲しかった。
サラリーマンを理解しようとした僕や、実際にサラリーマンである観客にとって、島耕作とは、暗黙の了解の上に成り立っている『共同幻想』なのではないか。
今回の島耕作は受け身だった。派閥間を風まかせで漂っている、というキャラクターを浮き彫りにさせるためには、優柔不断とも見えかねない、ぐらぐらブレる人間として作るしかなかった。
もし続編製作が実現すれば、次は主体的なサクセス・ヒーローとして、東京本社に這い上がって行くまでの姿を、カタルシスたっぷりに描いてお見せするのだが・・・・・
公開2週目に入った今、情勢は厳しい。
続編実現のための興行成績のボーダーラインは、どうやら越せそうにない。
この秋は、寒い。
おわり
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