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おやじ、ありがとう [野沢コメント記事]

1997年に週刊誌に書いたものです。

父の膝に乗りこちらを見つめてるのは、当時4歳の野沢尚です。脚本家・作家として紙面に登場した野沢尚から想像できましたでしょうか。

この記事にも書かれてますように、この仕事に進むきっかけを作ったのはお父様だったようです。そして父のためにと「坂の上の雲」という作品を引き受けました。最初、大河ドラマとスペシャル大河(坂の上の雲)のお話があり、どちらをやろうか悩んでいました。私にも意見を求められました。ですが野沢は「坂の上の雲をやろうと思う。おやじに見せたいんだよね」と言いました。最初からこの作品がやりたかったように感じました。

今思うと当時の選択は正しかったのか分からなくなります・・・。でも、幼い日に今の職業を選択したように、あの時も自分の信じる選択をしたのでしょう。


  
’64年に名古屋の自宅で撮影。当時父は37歳(この記事を書いた野沢と同じ)

父に教えられた「物を作る楽しさ」

僕が小学校低学年の頃だったと思う。そろそろ父が外国から帰ってくる頃だと思い、雑木林での蝉とりも早々に切り上げ、家に帰った。
 父は昼間から風呂に入っていた。朗々と響いてくる歌声があった。父は「骨まで愛して」のサビを繰り返し歌っていた。出張先のタイで日本の流行歌が流行っていたのだという。晩酌でご機嫌になるとドイツ語の歌を高らかに歌う父が、「骨まで愛して欲しいのよ~」と口ずさんでいたのが可笑しかった。
 家畜遺伝学者の父は、僕が幼い頃から、世界各国の家畜を追って海外出張ばかりしていた。だから僕は「寂しさ」というものに免疫ができた。家族旅行など一度もしたことがない。だが、どんなに酔っ払って帰ってきても父が将棋を打ってくれるだけで、僕は満足だったような気がする。
 あれが所謂、アカデミックな家庭というやつだったのだろうか。父は外国から帰ってくると、現地で撮影したヤギや羊のスライドを、襖をスクリーンにして解説付きで上映した。家の冷蔵庫には動物の血液が入った試験管が束になって置かれていた。食卓で大きな蛙を解剖してくれたこともある。
 本に囲まれる生活というものを、父の書斎を見て憧れたのは間違いない。
 初めて見た映画は、父と一緒に今池国際劇場で見た『沖縄決戦』だった。
 最初は映画評論家になりたかった。毎日ただで映画を見られるなんて、夢のような仕事に思えたのだ。すると父が言った。「人が作ったものを批判するより、自分で作ったほうが楽しいぞ」
 おかげで僕は、どんなに辛くても「楽しい」と言える仕事をこうして手に入れることができた。 


読み直してみて・・・私は複雑な気持ちになりました。


2007-01-22 09:26  nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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がっさわら

創作の喜びと苦しみは表裏一体のものなのでしょうか。
<どんなに辛くても「楽しい」と言える仕事>から「楽しい」が抜けてしまえば、ただ辛いだけの日々になります。その中でもひたすら前に進もうともがいてみえたのでしょう。心情は察するに余りあります。

写真をお見受けすると、お父様の顔が野沢氏の表情と重なります。
「人が作ったものを批判するより、自分で作ったほうが楽しいぞ」と、父から子へ伝えたというのは素敵な話ですね。こうした素敵な環境が土台にあって、多くの傑作が生み出されたのでしょう。

今池国際劇場は、昨年8月に閉鎖になってしまいました。近辺に住む私としてはとても残念です。
ですから私も野沢氏同様、初めて見た映画は今池国際劇場で見ました。ただし作品は『沖縄決戦』ではなく……『ダンボ』でした。
私とはスタートが違うなぁ。
by がっさわら (2007-01-23 13:10) 

野沢

がっさわらさま、地元情報ありがとうございます^^野沢の育った環境が見そうで嬉しいイです。
私が初めて劇場で観た映画は「ミツバチハッチ」と「モスラ」と・・・?何だか記憶があいまいですが・・・。組み合わせがすごいですね。私の育った田舎では5本立てなんていう無謀な状況で見たように思いますが・・・(苦笑)
by 野沢 (2007-02-01 19:59) 

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